9.朗詠二調

 宮内庁楽部に現在まで伝えられている歌曲の最後に、所謂朗詠の2調子、平調宮と盤 渉調の実態を解析し、雅楽歌曲部門の一応の解明を終わりたいと思います。

 朗詠と言う声曲文化は、中国の南宋(1.127〜1.279)から元代(1.271〜1.367)、そ して明(1.368)の太祖の頃となって、愈々その曲態を完成させ、世々代々の儒生等を中 心に盛んに演唱された風潮で、これが平安朝の中期頃本邦に伝わり、当時の公卿貴族や 民間の儒生・文化人たちの間に、盛んに歌われたものです。

 中国の古典的詩文の中から、その要句を吟詠すると言う様式であるところから、その 芸態は多分に文芸的で、曲趣としては歌謡と言うより歌詠というべきものです。またそ の歴史的意義を思えば、今日の一般的詩吟や朗詠の総称としての吟詠等の、淵源として 基本的陰音階の曲調の、定着と確立を果たした、原声曲と見做すことができます。

 そして大変興味を覚えることに、当時はその演唱する曲態は同じでも、詠ずる歌詞の ジャンルによって称別していたことであります。詞的題材として漢詩を吟ずる場合に限 り、朗詠と名付け、和歌等を吟ずる場合には唱歌と呼んで、截然と演唱動機の違いを類 別していた、と言われています。

 さらにその曲調的推移や曲態も、いづれも一定したものではなく、演唱者たちの音律 的素養と、文芸的教養などの習合に従って、極めて自由に、しかも詩文や歌の持つ韻脚 や内容に対応した、自然な曲趣を以て尊しとしていたようで、多分に古代から在野に伝 誦されていた、慣例律的歌詠感性が大きく働いていたようです。その曲調こそ違ったと しても、芸態としては古代ギリシャの音節主義とまことに類似していたものと、考えら れます。

 その搖籃期にして既に90首の曲数に達し、その後催馬楽や民間伝承の今様と同様に、 源家、藤家の2流により管掌されたものとなり、双方で競って曲数を漸増して、源家で 100余曲、藤家では200首を数えるに至ったと言われています。

 近古代から中世にかけて、あらゆる一般的表現文化から雅楽までの風潮であった、国 風化の影響を受け、所謂「附物」と言われた管弦の助奏が加わり、箏・笙・篳篥・龍笛の編成による伴奏の形態となって、本貫の中国では思いもよらない、華麗なる管弦歌曲 の響態にまで進化してしまったのです。

 こうした習合による経緯の中に、次第に器楽的音律推移の掣肘をうけて、曲態や曲調 も改定が繰り返され、独特な曲趣に定着したもの、それが所謂声曲の雅楽化の傾向性で す。

 また一方では、公卿貴族たちの社交的宴席歌詠としても、欠かすことの出来ない習俗 芸態でもあったようで、それが雅楽管弦器楽の一般化の端緒となって、わが国の社会一 般にわたる、初めての家庭音楽時代を迎えることになったのです。時恰も伝承者の任に あった藤原博雅の楽理の普及活動には、その役割を果たす恰好の存在だったと言えましょ う。

 しかも当時は、外来の知見による楽理が中心で、曲調的意識としては呂律の2類に限 られ、陰旋、陽旋という曲調が存在したとは言いながら、前者のいずれかの調号の中に 含められていたようで、従って器楽演奏上の調号は、只その主音のみを示したものと見 るべきです。近世の時代に完成された三味線音楽の主調が陰音階でありながら、陰旋、陽 旋の称別のもとに、その機能性の違いが確立されたのは、明治以後洋楽が輸入されてか ら、その長短調の影響を受けてからのことだった。と言う歴史的実状からも分かるよう に、名称が付いてからの存在ではなく、楽理の場合は元々存在する機能に対する、差異 に与えられた名称と言ってよいものです。従って「陰旋は律旋から進化した」と言うよ うな説は「紫色は赤青のどちらかが前にあった」と断定するものに等しいような問題を 残します。

 さて現在まで、正式として伝えられている朗詠の10数曲は、明治の始め(1.858 )頃、綾小路有良(1.906 没)から、当時宮内庁に招請された、各地の楽人たちに伝えられ たものです。

 その2種の曲調を代表して、平調宮から『嘉辰』(祝)と盤渉宮からは『泰山』(山水) の2曲を課題曲としてみました。

T 平調宮『嘉辰』(祝)

 表題の『嘉辰』とは、古代中国の官人たちの最上級の祝儀詩文から、晴れやかな情感 を詠んだ部分の要句です。

7言節による上下の2句から構成されています(下記詩文参照)

嘉辰(祝) 謝偃

嘉辰令月歡無極 萬歳千秋楽未央

 それでは先ず、朗詠平調宮の総合声域表から例によって検討することにします。

[譜例・126]

平 調 宮 朗 詠 総 合 音 域 表

 前述の通り平調宮とは、奏楽上Eの音律を主音(宮)とするだけで、曲調的設定では ありません。上段の実音声域表を整理して、高音譜表上に移して音列式としたものが下 段です。

 そしてこの音列式から解析し、成立可能な音階を類推した、次の譜例(127)には (イ)から(ヘ)までの、合計10種類の音階です。

[譜例・127]

以上成立した各音階の中でE(平調)を主音とするものは、(イ)のE・TP�が只一つ であるところから、この曲調が主調性ということは略々間違いないと思われます。そし て朗詠という声曲そのものの、文化史的環境社会を考慮に入れて、楽器奏楽を中心とす る律音階よりも、その併行調的陽音階の方が、慣例律的野趣に富み自然な曲調のように 思われますので、課題曲の曲調解析に際しては、その点充分な配慮が必要でしょう。

また特に『嘉辰』は、朗詠の代表的楽式を持っているとも言われています。つまり演唱 の機会も多く、詩文の格調と祝祭性から、定着を果たしたものと思われます。

[譜例・128]

嘉 辰(1)

 

 この楽式は、「一の句」「二の句」「三の句」の三部形式です。各段がそれぞれ完全終止 しているところから、楽節的よりも楽章的曲趣となっています。従って本講では、各段 に対し、独立した楽章と見做すことにしました。

 そして詩の全文を完唱するのは、「二の句」だけで、「一の句」は上の句7言の3

言目の「令月」から「三の句」は上の句の7言の5言目の「歡無極」から主唱者のソロ で導入し、斉唱に移行する様式となっており、各句相互に大同小異の曲調推移で繰り返 されると言う反覆形式です。

 これは現代の一般に伝承されている、詩吟や朗詠等の下の句の反覆形式の原形と考え られ、要句の持つ詩的情趣を尚める、中世的知恵を、強く感じさせる曲態であると、言 うことが出来るでしょう。

 予想どうり主調性は、E・TP�の陰音階であることは、疑いの余地がありません。そ してH・TP�の陽音階が属音曲調として、終止形を構成しており、しかもこのH・T P�の基調的併行音階が、A・TP�と言う〔譜例(127)の(ニ)を参照〕律音階 が、下属音主音に当たるところから、上下にわたる属音機能の複合調だったことは、意 外な発見として今後に、新たな課題を残すことになりました。

 また現代邦楽の三味線音楽でも、その殆どの曲調が陰音階とその主音と五度関係の陽 音階が主流となっています。これは日本人の歴史的曲調感覚とも思われ、その源流の一 つが中世の朗詠と見て、間違いないようです。

 ともあれ 1 楽句の主唱のソロによる導入部4小節は、ひと先ず H・TP�とE・TP�で、完全終止形で纏め、続く 2 楽句の先めの tutti から斉唱の声曲から改めて、同曲調の経過を 3 楽句全体にまで拡大しています。この始めの3楽句に対し て、確かな曲調が提示されていることは、否定出来ないものとなっています。

 こうゆう曲態もまた、邦楽の歌の出端の常套的様式美の一種となっているものです。

この第1楽章(一の句)全体を通して、特に注意しなければならないところは、 5 楽句の3小節でしょう。ここでは楽句の始めの1小節目から、D・TP�と言う〔譜例(1 27)の(ヘ)を参照〕陽音階でも、充分に対応できるところですが、、となると2小節 2拍目から3小節まで持続されるfの部分で、その音が第1中間音となって、不安定感 は否めません。しかもフェルマータまで付いて、その声律が強調されています。そこでやや安定度のある中間解決を思考して、D・TP�の基調的併行調のC・TP�と言う 律音階に、敢えて選んだ次第です。

 つまりフェルマータまで付いて持続延長された重要な音律は、たとえ中間終止として も、第2か第3の核音であることが、旋律的自然な安定感が得られると言うわけです。こ うした陰音階を主調性とする旋律のなかで、 mi から fa または fa または la から fa となった持続音は、陰音階独特の中間解決として考えられますが、 5 楽句2 小節1拍の裏の re から la に上行した持続音には、多少不自然なものがありますが、 恐らく伴奏楽器が加わっているから、その奏楽的掣肘の中で、体験的に変化したものか、 本貫の地中国からの曲調の名残りとも、考えられないこともありません。

 いずれにせよ「一の句」全体を通じて感じられることは、余りにも曲調的収斂性が、逆 に旋律的には単調となりはしないか、と言う問題点もなきにしもあらずですが、その反 面、演唱者の意識によって、詩文に対する興趣を尚める効果となっていると、見るべき ものでしょう。

[譜例・129]

 嘉 辰 (2)

 「二の句」は全く「一の句」の繰り返しに近いもので、曲調的には大同小異です。しか し詩文を完唱する楽章は、この「二の句」だけですので、曲態としては伝来当時の原形 に、最も近いものと思われます。

[譜例・130]

  嘉 辰 (3)

 「三の句」では、なんと言っても主唱者のソロの楽節が、拡大されていることでしょう。 つまり延長されたソロの部分は「二の句」の余情を長く持続したということでしょう。

 従ってこの楽章では、 24 楽句2拍目から斉唱される、下の句7言が本歌で、そこを強調しようとした前半の、長い導入部と見られるわけです。

 源家藤家の2流に伝承と教授が委ねられたところから、二者競応のうちに芸道思想が 涵養され出した、当時の社会的背景が、まさに浮き彫りにされたような3段形式の曲態 と、曲調とも言ってよいような、けっして場当たり的な曲趣ではないものです。どうや ら声曲的美意識の芽生えの時代でもあったわけです。

 こうして詩文を歌詠すると言う表現文化的行為は、仏教の経文を歌詠する行為とも、共 通性が見いだせます。このことは朗詠の伝幡経路に沿って、朝鮮半島でも本貫の地中国 大陸でも例外ではなかったわけです。

 所謂梵唄とか声明とかよばれた、仏教の儀礼歌詠は、わが国に仏教伝来の当初から、各 寺院で盛んに行われていたので、その音律感は、長い世代を経るうちに何時しか国民的 慣例律の一部として、定着していたと考えられます。従って朗詠の国風化的風潮の基層 には、その音列式の違いを類別して今日考えられている、律・陽・陰の五音階の複合調 が、儀式歌詠旋法の慣例律として、進化を遂げていた時代だったと、推察できた次第で す。