(七) 雅楽歌曲の旋法

1.中古代奏楽の沿革

 大宝元年(701)、わが朝の治部省内に雅楽寮が制定されたと言われています。
 それまでの宮廷式楽の総てを統合して、その管掌の司になぜ改めて雅楽の字を当てた ものかは、定かでは有りませんが、前述したように雅楽とは、本貫の地古代中国の都長 安における、王宮内の祖霊廟の献楽にのみに限られた正楽の総称であり、これを敢えて 借字として転用したものですが、わが朝に実際に伝えられたものは、その正楽ではなく、 宴楽や雑芸(伎楽など)のような俗楽だったわけです。

 ともあれこの雅楽寮設立前後に、唐楽・高麗楽・度羅楽等が伝来し、これらを「種々 の楽」とか「諸方の楽」、または唐楽・新羅楽とも呼んだようです。

 さらに東大寺の大仏開眼の前後には、渤海楽や林邑楽(736)なども伝来し、旧来の伎 楽までを加えて、これら外来の舞楽は8種を数えるに至ったわけです。

 その後約一世紀の時の流れのうちに、これらの楽種は、節々折々の奏楽体験を重ね、宮 廷式楽という格調に適応した、唐楽・林邑楽・高麗楽の三種が遺され、唐楽と林邑楽は 「左方の楽」、高麗楽は「右方の楽」として分けられ、かって「諸方の楽」と呼ばれたも のの多くは、いつしか衰滅してしまったのです。

 やがて近古代に移って、音楽を特に愛好した仁明天皇は、その即位の式典(833)の奏 楽として、従来舞楽の伴奏専門の楽部を、舞から独立させて、純粋な奏楽のみの器楽曲 を創らせ、わが国独特の管弦による純音楽を演奏させたのです。

 これを契機として、当時の有職位官を先めとして貴族階級一般に、管弦器楽合奏の遊 びの道を促すこととなり、家庭音楽という風潮と共に、本格的国際音楽時代を迎えたの です。やがてこれが国風化と認められた平安文化の粋として、様々な表現文化の面に影 響を及ぼしたわけです。

 同時に一般の儒生たちの間には、漢詩の秀句を吟詠する流行と、この「管弦の遊び」と が結ばれて、朗詠と言う語り物音楽形式の曲態的先鞭をつけることになったのです。

 さらに上古代からの宮中神事歌謡とも、管弦が結んで、これらを総称して雅楽の歌曲 物と呼ばれるようになったのです。

 さてこうなると、従来の舞楽や雅楽管弦を主体とする器楽の基調、壱越調の呂旋法で は、古代からの歌謡やわが国の声曲には、当然不自然感は否めず、声域的にも適応しな い無理があり、新たに声域と音域とが釣り合った雅楽歌曲の九声を定めたと言われてい ます。