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(五)台南孔子廟の音楽 1.その沿革と釈奠儀について ここに引用する研究記録は、黒沢隆朝氏が東洋音楽学会30周年記念出版の《日本・東 洋音楽論考》の中で発表した、『台南孔子廟の舞楽』と言う論文から、楽理的周辺として 意義深いと思われる部分の抜粋です。 そして本講の第一課題とする、研究対象の実際の譜例は、昭和18年(1.943)久しく廃 絶されていた聖廟釈奠儀を、当時の台南市長・羽鳥又男氏の英断によって復元された際 の黒沢氏自らの採譜によるものです。その資料的文献と奏楽に用いられた楽器類(8音 編成)に対して、詳細な観察記録とその音律の解析判別には、氏の研学的真摯な姿勢が 強く感じられ、兎角曖昧で理路もまた韜晦に陥りやすい傾向の、この種の論文の中で破 格なまでに適切な資料と対応の見事さはまさに歴史的楽理研究書の白眉として、信憑性 の高いものと筆者は受け取れましたので、敢て実楽考察の始めに、これを採用することゝ した次第です。 さて中国の明・清朝時代の文制によれば、各省各州に学府を設けて、天下の秀才を集 めて養成したことが知られています。そして各学府には夫々に聖廟を附設して、孔夫子 を師表として学徳の研鑽につとめたと言われています。 台南の現在置に聖廟が設けられたのは、明の永暦20年(清の聖祖康熈5年=1.666)で、 台湾全土を長いオランダの制圧から開放した鄭成功の子、経の創建によるものだったの です。そしてその鄭氏は康熈22年、清軍に降ってこの聖堂もそのまま清朝に引き継がれ たと言われています。続いて康熈24年(1.685)台湾学府が再建されると同時に、大成 殿・東西両庶・大成門・ 星門・啓聖祠(崇聖祠)を造営して今日の規模に至ったので す。 さらに康熈51年には、改めて礼楽器類が整備されて、本格的に清朝式の釈奠が行わ れるようになったとの記録があります。乾隆14年(1.749)建立の碑文には「典籍庫、礼 器庫、及び楽器庫の別が定められ、銅を以て礼器を鋳造し、楽器を補修して各其の数を 充足した」とあります。 その後数次にわたって楽器の補修が行われて、道光19年(1.836)建立の碑文には「鐘 匏鼓、琴瑟簫管、 みな具う、舞は六 六六三十六人、海内の楽工を聘し童子 に習わしむ云々」とあります。当時大陸側の北京・曲阜・京城にあっては、舞生は成人 だったのに比べて、台南では童子を用いたと言う記録は、地域的伝統習俗を知る上で、大 いに興味深いものがあると言えます。 やがて明治28年(1.895)日本領台以後は、当然の事ながら府学の制も廃せられ、一時 は廟堂もすっかり荒廃に帰すところとなって、漸次復旧保存に意を用いつゝ、大正6年に は、旧廟堂も解体して大修理が行われ、礼楽器類も今日現存するものとなって、盛大に 釈奠儀が行われてきたと言われています。 前々項でも言及した礼楽とは、釈奠儀に用いられる奏楽のことです。そして釈奠とは 先聖先師を祀る儀式のことで《礼記》の文王世子に「凡そ学ぶものの春夏に其の先師に 釈奠す、秋冬も亦之の如し」とあり、その注記には「菜を釈し幣を奠して先師に礼す」と 言う故実を上げています。つまり釈奠とは蔬菜を祭壇に備える儀式のことで、春秋の仲 月の上の丁の日が選ばれていたのです。さらに中国の上代は学府ばかりではなく、山川、または廟社にも釈奠の礼が挙げられていたようです。 さらに《礼記》によればこの礼は、夏・商時代以前から行われ、周の武王に至って五 声十二律(慣例律本位)の制定と共に学府が建てられ、「四代の学を設け、六代の楽を合 して釈奠の礼、始めて大に備わる」とあります。ここで謂う六代の楽とは、黄帝の「雲 門」、尭帝の「咸池」、舜帝の「大韶」、禹王の「大夏」、湯王の「大護」そして武王の「大 武」のことです。 しかしながら先聖先師は、はっきり定まっていたようでもありません。いつの時代で も先ず黄帝と尭舜らは筆頭として、除かれることはなかったとしても、春秋時代の乱世 は、すっかり王道もすたれ、師道も地におちてしまい、釈奠もまた名ばかりとなってし まい、秦の始皇帝のころとなっては、焚書坑儒の風潮から、釈奠どころの記ではなかっ たようです。正楽と位置づけられた礼楽(雅楽)は影を潜め、仏教の流入と共に諸楽が 伝わり、俗楽類が宮廷に入って習合され、宴楽の全盛期となったわけです。わが国古代 の朝に伝わった外来楽は、楽器類を含んでこの時代以後の俗楽だったことは、前にも説 明した通りです。従って雅楽の基調音だった編鐘が施入されなかったことも、自ら首肯 できるものたわけです。 ともあれ一度は忘れられていた釈奠が復興されたのは、漢の高祖の12年(BC195)に なって、改めて孔子を師表として祀ることが始められ、後唐の貞観11年(637)に、本格 的に孔子を先師として、顔回をこれに配して釈奠を行って以来、宋・元・明・清と継承 されていたわけです。 従って台南の釈奠はこの頃の清朝制に基づいたもので、儀節は神聖視され、その節を 失うことがあれば、刑罰を以て厳格に墨守して来たことは、間違いなかったようです。 このようにしてその沿革の途中、多少の変遷は止むを得ないとしても、その奏楽実態 の大要は略々知ることが出来るわけです。 わが国の雅楽(古代中国の俗楽)もまた、中世の末期から近世を通して、長い間の分 散保存期があり、明治となって改めて宮内庁掌管のもとに集合され、踏襲的復元がなさ れたものです。その伝承音楽としての宿命的変遷のプロセスが暗合していることも、ま たまことに興味ある現象と言えます。 今日の中国大陸では、全く古代の俗楽の実態は失われ、その意味からは韓国国学院の 正楽やわが国の雅楽は、貴重な存在と言ってよいものです。ところが台南の孔子廟の釈 奠の礼楽は、古代から門外不出と言われた秘楽でもある。上代祖廟の儀礼楽の系淙の雅 楽であることは、これまでの沿革の史実から見て、確かな手応えが感じられるものと言 えます。これこそ九牛の一毛に等しい秘楽であります。本講の研究対象として、これに 勝るものはありません。 さらに黒沢氏の研究には、その演技的芸態や楽器構造学の上からも、まことに微に入 り細に入った説明も加えられていますが、楽理的解析に必要な部分だけに絞ることにし て、本題に移りますのでご了承下さい。
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