(4) 表現活動の三大要素
ここで、鑑賞活動に対応するものは、表現活動であり、この表現活動を明らかにすることによって、鑑賞活動も又、明らかになるとの観点から、ここで一応の表現活動につい述べてみる。 前項に明らかなように、表現活動に必要な要素は数多く上げられようが、その幹として表現を構成する要素は、次の三つである。 その三つとは、・表現の意欲、・表現の哲学、・表現の技術である。 いかなる表現、又、鑑賞にしても、この三つの要素によって、その内容が決定されており、他の要素はこのいづれかに収れんされてしまう。 もっとも、これらの要素は、人間の内的要素として求めたものであり、表現活動には、他に外的な要因も関連してくる。 しかし、表現活動が人間の本能としての生命活動である以上、その本質的な原形は、あくまでも、内的に捉えなければならない。こうした理由から、ここでは、人間の内面にこれらの要素を求めたわけである。 1 表現意欲 人間の自然な表現は、全て、本能である表現意欲の発露である。 心奥からほとばしり出る生命の、つくろいのない表現は、表現技術や外的な諸要素を超越して、聞く人を感動させずにはおかぬ響きをもっている。これが、表現の原点である。 しかし、現代では、この原理が非常におろそかにされている。作曲家や演奏家の多くは、感動を忘れ、最小限の意欲をもって、あるいは職業的に、あるいは与えられるままに、あるいはスポンサーの制約に縛られて音楽活動を行っている。 当然、そうした状態からは、感動的な音楽創造、音楽表現は不可能である。それが、結局、心ある聴衆の離反を生み、結果として、その弊害、不利益が音楽家に還ってしまう。 この悪循環の是正は、一面で政治や制度の改善に求められるものの、表現という人間の行為で捉えるならば、根本的には、そうした外的条件の問題ではなく、音楽家自身の生命の問題として捉えなければならない。 2 表現の哲学 表現の哲学について一言でいえば、「何のための表現か」ということを解決することであるといえる。即ち、表現の目的観の問題である。目的は、その方向性と、高さによって選別されるが、これを決定していく尺度となるのが表現者の依とする哲学である。 表現は、他人に対しての自我の顕現である故に、一般的には、目的のない表現というのは存在しない。その目的を方向づけていくために、表現には、哲学という要素が必要となるわけである。 さて、人間社会における表現の目的は、原則として価値的でなければならない。 いかに表現意欲が旺盛であり、表現力に優れていても、表現目的の方向が、反価値的であっては、正しい音楽とはいえない。むしろ、民衆に悪影響を及ぼす害悪として、排除されなければならぬ存在である。 しかし、表現の自由は、最も基本的な人間の権利として保障されている。そのたてまえからすれば、いかなる目的の表現もさしつかえはないと思われよう。 だが、決してそうではない。〈表現の自由〉のさらに基底に人間としてのルールの存在があるからである。 人間生存の原則からすれば、私たちの目的の方向は、平和的であり、建設的であり、向上的であるということを本能的に要求している。 身近な表現活動として、日常における私たちの対話や行動を考えてみよう。私たちは、円滑な人間関係を保つために、基本的には、相手を尊重し、連帯を前提としながら表現活動を行っていはいないだろうか。 そして、その基本の上に、表現の自由がある筈である。展開すれば、人間社会全体も又、こうした大綱の流れにのっとって、全ゆる表現活動があり、音楽も、その一環である。 したがって、もし、音楽にたずさわる人々が、この原則を破棄するような表現活動をするとすれば、それは、自ら、その優れた表現手段である人間財産を破棄することであることを知らなくてはならない。 あくまでも、人間連帯の中に、音楽を位置づけてこそ、その真価が発揮されるのである。 次に、目的の高さ、云い代えれば哲学の高さは、音楽のパワー、即ち、聴衆への影響力を決定する。 どれだけ広い層の人々に、どれだけ多くの人々に、どれだけ長い時間、どれだけ生命の深層に影響を及ぼすかは、目的観の高さ、哲学の深さに正比例すると考えてよい。 3 表現技術 表現技術は、いうまでもなく、自己の内なる表現意欲、意図を音に結合し、表現する力であり技術である。音楽という表現形態をとるには、一定の水準以上の技術が必要になってくる。 表現力が高くなるほど自己の意図は、明確に表現できる。 しかし、技術は、あくまでも、表現意欲やその哲学に応じて存在する手段であり、決して目的ではないことを忘れてはならない。 さらに、これら三つの要素について、忘れてならない特質は、表現意欲、及び哲学の要素が、無限の広がりを有するのに対して、技術的要素は、それらに比較すれば、明らかに有限であると捉えられる点である。 ここに、テクノロジーの限界があるといってよい。 さて、これまで順序にしたがって表現側から三要素を述べてきたが、この原理は、鑑賞の側においても全く同じである。 鑑賞を決定する三要素は、・鑑賞の意欲、・鑑賞の哲学、それに・鑑賞の技術である。 鑑賞の意欲は、表現本能と対応する表現を享受しようとする生命活動であり、これが鑑賞活動の基本である。鑑賞技術は、相手の表現に対する理解力、洞察力である。 その背後にあって、意欲と技術とを結合し、鑑賞活動の方向づけの役目を行っていくのが、〈鑑賞の哲学〉の働きである。 「何を聞くか」という選択、又、鑑賞における理解力、洞察力の深さは、鑑賞者の依処とする哲学によって決定されるのである。 以上、三つの要素を個別に捉えてきたが、ここで、少しそれらを相関的に捉えてみよう。 まずここで、私たちが頭に入れておかなければならないことは、これらはいづれも、表現活動を決定する重要な要素でありながら、並列的、等質的に扱ってはならないということである。なぜなら、形式論として分析すれば、それぞれが分離した要素として等しく抽出できても、実践論において何が問題なのかを論ずる場合、当然その比重の度合は異なってくるからである。
意欲と技術
表現においても、鑑賞においても、行為の基本は意欲である。そして、意欲と相対に位置するのが技術である。 本質的に、技術は意欲に従属しており、力の関係からいえば、意欲に比重がおかれなければならない。 感動的な表現、真迫した表現とは、意欲が技術と同等、或は技術よりも上まわっている場合における表現活動のことであり、逆に、技術の比重が意欲を上まわった表現は、心の通わない非常に空虚なものとなってしまう。
意欲と哲学
意欲と哲学的要素とは、きわめて連動的な要素である。
意欲は哲学を運用し、哲学は意欲を誘発する。大きな意欲は、高い哲学を必要とし、高い哲学は大きな意欲を生みだす。 表現活動の場合、これら二つの要素によって構成されるのが、表現内容であり、表現意図である。
哲学と技術
技術は、表現活動において必ず必要とされる要素である。いかに旺盛な意欲があり、哲学を擁していても、作曲技術がなければ、その意欲を音楽作品としては結晶させることができないし、演奏技術に欠けていれば、思い通りの表現は不可能である。 そうかといって、技術が優れていれば、密度の高い作品が生まれ、人に感動を与える演奏ができるかといえば、決してそうではない。 技術は、それ自体では、音楽内容そのものとは無関係であり、評価の対象ではあり得ない。技術の評価は、音楽創造にいかに活用されたかによって決定される。そこに、哲学との関連が生まれてくる。 即ち、技術は、いかなる哲学によって運用されたかによって、音楽の価値創造に貢献できるのである。したがって、技術には、つねに、それを駆使できる哲学と意欲とが併せて必要になってくる。 テクノロジーが否定されなければならないのは、テクニック自体ではなく、テクニックを万能とする低い音楽観、それを生み出す浅薄な哲学、及び、非常に進歩した技術に見合わない貧弱な生命活動の部分である。 正常な表現活動における三要素の関係を、図式的に分析するならば、まず底辺に、基礎となる表現意欲がおかれ、次に、それを方向づける哲学的要素があり、それらの要素にしたェって技術が運用されるというようになろう。
(図1) 自分の技術を駆使して、思いのままに、表現、或は鑑賞している状態である。 これに対して、内容と技術の比重が逆の関係になった場合
(図2)
には、内容に技術がふりまわされ、又、テクニックという狭い視野から音楽を捉えた、きわめて即物的で無感動な、アンバランスな表現や鑑賞に陥ってしまう結果となる。 そして、表現活動を全体的に捉えれば、表現者の三要素(表現の意欲、表現の哲学、表現の技術)と、鑑賞者の三要素(鑑賞の意欲、鑑賞の哲学、鑑賞の技術)が、対応し、関連し合うなかに生命交流が行われ、表現活動が展開する。 つぎに、この関連から生じる生命変化の内容を平易に捉えるために、量として捉えてみよう。
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