(9)テンポ

 楽曲は、それぞれに、一番適切なテンポを持っている。
 楽曲のテンポや表情は、その曲の持つ生命の表出であって、決して、即物的に決められるものではない。曲の流れ、リズムの必然性が、テンポを作っていくからである。
 だから、指揮者や演奏者が、「モーツアルトはこのテンポ、マーチはこのテンポ」というようにあらかじめテンポの設定をして楽曲に取り組むというのは、根本的な考えの誤りである。
 曲自体に備わったテンポについて少し考えてみよう。
 まず、大まかには、その曲を貫く本質的なテンポが存在する。
 例えば、メヌエットにはメヌエットのテンポがあり、ワルツにはワルツのテンポがある。これは、メヌエットという舞曲の持つ本質的なテンポであり、ワルツのそれである。
 同じ三拍子の舞曲でありながら、その特質を寸分も逸脱することなく全てを備えて、しかも、それぞれ独立していつのは、それぞれの舞曲が持つ生命体のあり方が異なっているからである。 
 ワルツを知らない作曲家が、やみくもに三拍子の曲を作っても、決してワルツにはならない。ワルツの本質、即ち生命体が要求するリズム、メロディー、雰囲気があるからであり、その要求を満たさなければ“ワルツらしく”ならないからである。こうして、またワルツには、ワルツのテンポが本質的に備わっている。
 しかしワルツだからといって、全ての曲のテンポや雰囲気が同じではない。その本質を守りながらも、ヨハン・シュトラウスのワルツとチャイコフスキーのものとでは違ってくる。オーケストラで演奏されるワルツと、ピアノ用に書かれたワルツでも異なってくる。それぞれが内包する生命体に違った味が存在するからである。
 例えば、ミカンがある。ミカンには、統一された本質がある。リンゴのように赤いミカンはないし、バナナのように細長いミカンはない。“ミカン”と聞けば、私たちは脳裏に、そのイメージを結ぶことができる。
 しかし、一口に“ミカン”といっても、紀州のミカンもあれば、夏みかんもある。外国産のグレープフルーツや、オレンジもあれば、ザボンや、きんかんのような種類までが、そのイメージに含まれるであろう。
 そして、これらは、皆、一つの本質を貫きながらも。、それぞれが、違った外観や味を持っている。
 同様に、一概に、ワルツといっても、個々に捉えていけば、曲によって、本質を取りまいている要素には、差別が存在する。
 したがって、ワルツならば、シュトラウスも、チャイコフスキーも、管弦楽用の作品も、ピアノ用の作品も、全部、画一的なニュアンス、決められたテンポで捉えてしまおうという行き方は、大きな誤りであるといわねばならない。ましてや、他のどんな作品においても、この原則は同じである。
「ワルツのテンポ」はない。「マーチのテンポ」というのはない。あるのは、そのワルツ、そのマーチのテンポである。
 演奏者が、その曲に備わった、一番適格なテンポを引き出し得たとき、最もその曲らしさが表現できるのである。
 これまで述べたところは、楽曲自体が有しているテンポ、云わば、音楽の法則からくる絶対的なテンポについてである。
 しかし、実際における音楽創造の過程は、楽曲と、それに対する人間の関わり合いの問題として捉えなければならない。いかに楽曲自体に、厳密なテンポが存在しようとも、それを運用し、享受していく人間の諸条件や状況を無視して、音楽を論ずるのは無意味だからである。ここに、二つの要素がからみ合って、流動する生きたテンポ、相対的なテンポが生じる。
 二種類のテンポについて説明しよう。
 楽曲の速度には、物理的な速度と、生命的な速度とがある。
 物理的な速度とは、メトロノームによってきざまれる機械的な速度であり、生命的な速度とは、人間が心理的生理的に感受する速度のことである。
 メトロノームによるテンポの表示法が開発されて以来、物理的なテンポを指示する傾向が強くなった。機会による速度の伝達方法であるから、正確無比である。
 しかし、この方法には、一つの落とし穴がある。それは、人間のあり方が忘れられているからである。人間の感受性は、決して、物理的正確さを、そのまま享受できる仕組みにはなっていない。むしろ、人間の生命状態は、瞬間瞬間に変化し続ける事が、その特質であるといってもよい。したがって、人間における時間の感じ方は、極めて主観的であり、環境に支配されたものである。曲のテンポにしても同じである。
 例えば、M.M♪=120のマーチを、普通の状態で聞けば適正なテンポに感じられる。しかし、興奮状態におかれ、躍動した生命状態の時に、同じ曲が、M.M♪=120で演奏されたとしたら、やり切れない歯がゆさを感じるであろう。
 学生が試験の時に、普段より速いテンポで演奏を始めたりするのも、上気した生命には、いつものテンポが遅く感じられるからに他ならない。
 音楽は、人間の生命変化の中で行われるものであり、人間の生命は永遠に変化し続けていくものである。
 それを一方的に、物理的法則をもって規定するところに無理が生じてくる。
 メトロノームによる速度の指示は、物理的に正確ではあるが、生命的には、極めて、不正確な表示法といわなければならない。
 もし、作曲者がメトロノームによる表示法によって、演奏者に適格なテンポを伝えたいと思ったならば、その時における自分の生命状態を明示しておかなければならない。そして、演奏家は、その関連から生まれるテンポを把握し、それと同じ関連において、状況に応じた再現をすべきである。

 ビューローは、ベート−ヴェンの“月光ソナタ”のテンポを次のように指定している。
  第一楽章 Adagio  四分音符=52
  第二楽章 Allegretto 付点二分音符=56
  第三楽章 Presto 二分音符=88

   しかし、こうしたテンポの設定は普遍性に欠けるものである。
 これは、当時、ビューローが自分の立場で設定した適正なテンポである。たとえ、それが、一般的に受け入れられたものとしても、時代が変遷し、場所や生活様式が変化すれば、当然、テンポも変化せざるを得ないからである。現在、古典派のシンフォニーを、当時、作曲家が想定したテンポで演奏したら、聴衆から奇異の目で避難されることは受け合いである。
 かくして、楽曲の速度が、人間の生命によって感受される以上、音楽の速度の基準も又、物理的な速度による方法ではなく、生命的な速度によってなされなければならない。
 楽曲の絶対的なテンポと、人間の生命的はテンポについて説明してきた。
 そこで、最後に演奏家に要求されるテンポ観について結論するならば、演奏家は、楽曲のもつ絶対的速度と、その演奏会場における聴衆の生命レベル(コ−フン状態、プログラムのたてかたも影響する)即ち聴衆が感受する生命速度の融合をはからなければならないということである。 絶対速度にこだわって、人間の感受性を忘れるのはおろかであり、生命速度を尊重するあまり、楽曲の本質を失ってもならない。
 楽曲のもつテンポと、会場、聴衆の生命的テンポという二つの要素が融合して、はじめて、適正なテンポが生まれる。楽曲の本質をそこなわず、生命に対応したテンポを生み出すことが演奏家の腕前である。