(8)休 符

  演奏家にとって休符の扱いは、音符の扱い以上に重要な問題である。
 日本の伝統芸術が間で成り立っているように、西洋音楽の場合にも、休符の扱いが生命線であるといって、決して過言ではない。
 しかし、実際の場においては、案外その重要さの認識がおろそかになりがちであるし、又、休符や“間”の扱いが適切でない場合が多い。
 休符は、決して、音楽の休みでもなければ、空白でもない。休符における表情と表現の多様さは、音符の場合のそれと、何ら変わるところはない。
 それどころか、かえって、休符に込められた多様な表現こそが、音がなっている部分をも決定し、音楽に、有機的な流れや、息づきをもたらしていくといってよいであろう。
 そして、無音の部分のあり方が、音楽をいきいきと語らせることにもなれば、音楽の流れをせき止める結果にもなるわけである。
 休符を考えるとき、まず、この無音の表現の巾の広さと、力の大きさを認識しなければなるまい。
 私たちは、日常、無音による表現の威力を充分知っている筈である。言葉に表せない深い内容を持つ表現は、無音の表現となって表れ、相手に伝達される。云いようのない感動、驚き、恐怖は、無言のうちに的格に相手に伝わってしまう。又、言葉や音をともなう場合でも、その背景に色々な表情や所作があいまって表現の全貌が伝えられる。
「休符は休みではない」とか、「音楽の空白ではない」とはよく云われているところであるが、私は、それを一歩進めて、休符は、積極的は表現でなければならないと云いたい。
 さて、休符は、時間とそこに含まれるエネルギー量と、表現の質という三つの要素によって構成されている。
 時間とは、休符の長さであるが、これは休符の単位とテンポによってその基本が決められる。しかし、これだけの要素で休符の時間、音楽の〈間〉を決定してしまうことは、大きな誤りである。その理由は後に述べよう。 
 第二に、休符には、それ自体にエネルギーが存在していることを認識しなければならない。そのエネルギー量は、音楽の流れの前後の関連によって決まってくる。

  楽譜1:Beethoven ;"Egmont Overture"

  楽譜2:Tschaikowsky;"Swan Lake"

    例えば、〈エグモント序曲〉の冒頭、2、3,4小節目の弦の休符にある休符のエネルギー量と、〈白鳥の湖〉第二幕の情景の、ハープ部分に出てくるそれとでは、休符の単位が同じにもかかわらず、そのエネルギーの量には、大きな相違がある。この場合、前者は、弦の全合奏から生まれる厚くて強い音の壁を、両方に押しわけていくような、緊張感のみなぎる最大エネルギーを要する休符であるのに対し、後者は、ヴァイオリンのソロを引き出し、柔らかに背後から支えるハープの、軽く弾むようなエネルギー量と方向性をもった休符である。
 強弱記号に、p・mp・mf・fがあるように、又、クレッシェンド、デクレッシェンドがあるように、休符のエネルギーも、同じあり方で存在している。
 もし、先の例において、演奏者が、二つの場合を、同じエネルギーで扱ったり、逆に扱ったとしたら、音楽は死んでしまうであろう。
 第三に、そのエネルギーに託される表現の質である。同じ位のエネルギーであっても、Maestosoの場合とappassionatoの場合では、おのずから表現に込められる質が異なってくる。この量と質の関係も、強弱記号の時の原理と同じである。
 かくして、一つの休符は、これら三つの方向から総体的に捉え、判断して扱っていかなければならない。
 休符の時間、音楽の〈間〉が、休符の単位とテンポから単純に数学的に割り出せないのは、エネルギーがあり、表現の質があるからで、これらの条件を全て満足させる休符の扱いこそが、豊かで、引き締まった音楽表現を生みだしていくのである。
 一流の演奏家たちは、経験と天性の素質によってこれらの原理を体得しているのであるが、一般にもこの原理を認識することによって、欠陥のチェックと練習の方向が明確になろう。