(7) 強弱記号
ここまで演奏に関する基本事項の大すじばかりを述べてきたが、この辺で、演奏者が実際の現場にあたって直面するいくつかの問題点を、私の視点からみた、一つの見方として提示させていただこう。 作曲家を志すG君に聞いたエピソードがある。その話の真意のほどは分からないが、強弱の問題に関してとても興味深い内容を含んでいるので、それを紹介しながら話を進めよう。 外国から来日した指揮者が、演奏会のための練習をしていた時のこと、ある個所に来ると音を止めてこう云った。「トロンボーン、フォルテ!」‥‥。そして、その部分をくり返した。その個所に来た時、トロンボーン奏者は、前の時より強く演奏した。すると、指揮者は、演奏を中止してまた云った。「トロンボーン、そこはフォルテだ!!」‥‥。その部分を、さらにくり返した時、トロンボーンは、思いきって吹き鳴らした。指揮者は、譜面大をヒステリックにたたくと怒鳴った。「フォルテッシモじゃない、フォルテだ!!」・・・と。笑い話のような話だが、しかし、現実にありそうな話でもある。 この話には、二つの問題点がある。 一つは、音楽強弱の基準という問題、もう一つは、量と質の問題である。 十九世紀のロマン派以来、音楽の重要な表現手段の方法として、強弱変化による表情法(Dynamic)速度変化による表情法(Agogik)が、急速に発達した。この二つの要素は、織物のタテ糸とヨコ糸のように、互いに結合しながら有機的な表現を築いてきた。それは、現代の音楽においても不変である。 しかし、音楽のこういった部分は、計量のできない最もあいまいになりがちな部分でもある。したがって、演奏家たちは、自分のカンと経験から得た判断をたよりにこの問題に対処してきたわけであり、先程の指揮者と奏者のくい違いも、ある意味では当然の出来事といえなくもない。 さて、強弱記号は、十六世紀の合唱あたりから使われ出したものだが、十八世紀、ベート−ヴェンに至るまでは、ごく基本的な表情「fとpによって〈エコー的な効果〉を演出する」に過ぎなかったといってよい。 〈エコー〉を模した効果によって音楽に陰影をつけるのが目的だから、そうした作品を演奏する場合、演奏者がとくに解釈に困るということはありえない。内容も表現も簡明だからである。 しかし、ベート−ヴェンによって、音楽の表現は飛躍的に拡大され、多元的な表現内容は、もはや、エコー的効果だけでは、とうてい満足できなくなってしまった。この傾向は、ロマン派に受継がれて、強弱による表現法は、さらに複雑化し、多様化して、作曲家は、自分のイメージをより厳密に伝えるために、非常に綿密な表情記号を記入するようになってきたし、又、個性的にもなってきた。 表現が進むにつれて、演奏家の解釈力にゆだねられる部分には、ますます比重がかかり、それにそって研究も進められた。 こうして、ついに、ストコフスキーは、音の大きさを物理的に計算するにまで至ったのである。彼の解釈によると強弱記号と音量の関係は次のようである。
ppp=20フォン pp=40
フォン p=55 フォン mf=65 フォン f=75 フォン ff=85 フォン fff=95
フォン これは、物理的計算量による一つの基準法である。 先述のエピソードの示すように、確かに音楽の強弱記号には基準が定められていない。 しかし、そうかといって音楽の強弱は、簡単に物理的な扱いによって決められるものではない。音楽を行う当体は、機械でもコンピューターでもなく人間である。人間である以上、個人による感じ方は千差万別であろうし、同一の人間でも、会場の広さ、聴衆の人数、又は距離等、T・P・Oによって異なってくる。 そこで、もし、強弱に基準を設けるとすれば、物理的基準ではなく、生命的基準による以外にないと思われる。 一般的に使用する範囲で強弱記号を強さの順に並べれば、次の通りである。
1
2 3 4 5 6 ff f mf mp p pp ごく強く 強く やや強く やや弱く 弱く ごく弱く
これを見ると、肝心の3のmf(やや強く)と4のmp(やや弱く)の間に、基準になる強弱記号が欠落していることが解かる。何に比べて〈やや強く〉なのか、又〈やや弱く〉なのかということである。これでは、基点のない変動相場制のようなものであって、演奏家はますます解釈が困難になってくる。古典派やロマン派のものはまだいいとして、現代物や、未来の作品はさらに複雑化、細密化するものと考えられるからである。さりとて、何フォンや、何デシベルでは本質からはずれてしまう。 そういった本質をふまえながら、一つの基点を明確にしてみよう。 mfとmpの間に存在する基点は、置かれた状況における生命が感じる普通の強さ、Naturalである。 一般的には、緊張感をともなわないごく普通の所作から生み出される音の強さ、私たちが何気なく歌ったり、ピアノやドラムを演奏する時の音の強さといってよい。これを自然の状態としての強さの基準にしてはいかがであろうか。 しかし、これには、個人差や民族性の相違、置かれた状況の相違があろう。又、あって当然である。A氏のN(Naturalの略)とB氏のNが違ったところで、それぞれが、自分の音楽を創造する上には一向差しつかえがない。オーケストラのような多人数の場合は、指揮者がオーケストラという一つの生命体の、その状況におけるNを求めればよいわけである。又、演奏会の場合は、その会場内におけるNを求めなければならないわけである。 さめた状態にある聴衆に向かってのNと、興奮状態の聴衆を相手にするNとでは、おのずとその価は変わってこよう。Nという基点が、色々なケースによってスライドしたところで、強さの関係性そのものは変化するわけではない。したがって、左に示すような関係性が定着すれば、作曲家がどんな創作過程の状況で表示しようとも、それが適切な基準にもとづいていれば、演奏家をまどわす心配はないであろう。
表1:
f ー mf ー N ー mp ー p 強く やや強く 自然の強さ やや弱く
弱く
これで、ひとまず、基準にのっとった関係性の確立ができた。 次に、強弱における量と質の問題についてである。 この表には、ffとppがぬけているが、それは今までの話が、主に音量の上での話であったからである。 ffにしても、ppにしても、いわゆるシモ(ssimo)がつく場合に要求されるのは、単に音量のことだけではない。fとffの差は、量的な差より質の差である。非常に緊張感をもった表情がffであり、非常に緊張感をもった表情が、ppである。どんなに弱い音を出しても、気の抜けた音はppにはならない筈である。 一つの音には、量と質がある。この二面を総合して把握しなければならない。その意味では、表1:に示した強弱の関係性の表示は一面的な表示にしか過ぎない。 質と量を問題にすれば、ppでもpでも、mpでもmfでも、質量共にそうでなくてはならない。 緊張感のないffも、又量だけ考えたff(例えば、アンプ等の音量拡大)はありえないし、腹の中までゆれ動く大きなエレキギターの音もffとはいえない。
ffからppまでの表記についてまとめてみれば、ffからNに向かって (ff−>f−>mf−>N) 音量(大小)・音質(緊張感)ともに、Nに向かって減少し、 Nからppに向かって(N−>mp−>p−>pp) と音量は減少するが、音質(緊張感)は増大するということになる。 即ち、ppはごく弱いと言う音量だけの問題ではなく、緊張感、緊迫感はffと同様のものを要求される。 これらはただ理論の遊戯ではなく、実際に演奏家が音楽を創造する上に直接影響性をもたらす実践的な問題なのである。
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