(6) 作曲・演奏・聴衆
この章では、音楽を、演奏という断面から捉えているが、ここでそれをもう一歩おし広げて、音楽を、作曲、演奏、鑑賞という全体的なプロセスの上から眺め、その関連の仕組みを追ってみよう。(したがってこの項は四章、五章、六章にわたるものであることを了承していただきたい。) 音楽は原則として、作曲、演奏、鑑賞という三者の相関関係の上に成り立っている。即ち、音楽の創造は、作曲家と演奏家と聴衆の相乗行為であるということであり、音楽の価値は、三者のそれぞれ有している質量の値の相乗によって決まるということである。わかりやすく云えば、音楽は、作曲家と演奏と聴衆のかけ算である。かけ算であるから、いずれかの項が0であれば、値は0になってしまう。 作曲、演奏、聴衆、いずれが不在であっても、音楽の本質は失われてしまうということである。 たとえば、どんな名曲でも、拙劣な演奏にかかれば、音楽の価値は半減されてしまうし、またどんな名演奏家であっても、支離滅裂な駄作に遭遇すれば、価値ある音楽の創造は不可能である。さらに、どんな名曲、どんな名演奏も聴衆に享受されなければ無意味であろう。 もう一歩つっこんで云えば、名曲、名演奏という価値ある音楽は、偉大な作曲家と偉大な演奏家と偉大な聴衆の、高まった生命のるつぼの中からのみ取りだせるものであるといえよう。これらの関係を、私の音楽の大先輩である、有島重武氏の論理をもとに展開してみよう。 「音楽は、作曲家、演奏家、聴衆の三要素の関連の仕方によって決定される」 これらの相関関係を、より明確に、しかも表現を簡素化するために、形式論理の手法をかりて展開すれば、先の定義は、次のように表わすことができる。
F(C・P・A)=M・・・・・(1)
MはMusic・・・音楽 CはComposer・・・作曲家 PはPlayer・・・・演奏家 AはAudience・・・聴衆 FはFunction・・・関連の仕方
現実に生まれてくる音楽は、この三者の関連の仕方によって様々な結果がでてくるわけである。 まず、作曲家と演奏家の関連においては、先にも述べた通り三つの場合がある。 1: C>P 第一に、作曲家の音楽力(解釈力・表現力・センス等)と人間力(思想・人間性等)が演奏者より強い場合。例えば、音楽学生が、ベートーヴェンのソナタを演奏する場合である。 こういう場合、演奏家は全く理解のできないまま、ただ楽譜を音に表わすか、又、教授やレコードを忠実に模倣するか、もしくは、完全に自己流に演奏するかのいづれかになってしまい、作曲家の意図は音楽として表現されにくい。
2: C<P 演奏家の方が作曲者より力の強い場合。例えば、作曲コンクールの受賞作を、一流指揮者、一流オーケストラによって発表するような場合。又、多くの歌曲や、器楽曲が、優れた歌手や演奏家に捧げられて、はじめて、日の目を見るといったケース。演奏者は、作曲家の意図を汲みとって表現するのみならず、作曲者の云いたかったこと、云いたりなかったことを補充して表現する。また、さらには、作曲者の曲をかりて、完全に、自分の表現をする場合もある。
3: C≒P 作曲家と演奏家の力がほぼ均衡している場合。フェルトヴェングラーやカラヤンがベート−ヴェンの交響曲を演奏するというような場合であるが、こういった条件が整えば作品の力と演奏家の力のバランスは保たれ、互いに啓発されて緊張感あふれた音楽が創造される。 次に、音楽を提供する側とそれを享受する側との関連性、即ち、音楽を聴衆との関連性の上で捉えてみよう。
4: CP>A 音楽を提供する方が強くて、聴衆がのまれて感激している場合。v
この場合にも、次の三つの段階がある。一つは、演奏家のテクニックに感心しながら音楽を享受している場合。もう一つは、技術と人間性の融合した名演奏に感激して聞き入っている場合。さらに一つは、技術や形式を超越して、むしろ、演奏者の姿、そこからにじみ出る人間性に強く打たれて、生命の感応現象をもって享受している場合である。
5: CP<A 聴衆の方が力が上位で、理解と激励の立場にたって楽しんでいる場合。例えば、子供の発表会を聞いたリ、教授が新人演奏会を聞くといった場合。
6: CP≒A 音楽を提供する側も、それを享受する側も同じように力があり、互いに触発しながら想いを同じくして演奏会を楽しむ場合。例えば、音楽家のサークルが、成長と研究のために発表しあったり、ジャズやフォークソングの奏者たち理解の深い聴衆との相互の生命交流の中でプレイを展開するといったような場合。 さて、理想的な音楽のあり方は、作曲家も演奏家も、又、それを支える聴衆も、ともに高い能力と人間性を備えており、相互に啓発しあいながら、全てにわたって高水準の音楽の創造をしていくところにある。
これは次のように表示される。
F(C・P・A)=M ∴C≒P≒ A
・(2) A→0は、大衆を無視した専門家のひとりよがり、即ち、聴衆不在の音楽である。 この場合は式(2)は次のようになる。
F(C・P)=M ・・・・・・
(2)’ 逆に、A→∞ は、大衆にこびる音楽屋の音楽ということになる。 F(A)=M ・・・・・・
(2)” 三者による相関関係の骨格は以上の通りだが、次に、その個々を取り上げて、それを形成している要素を分析しながら考察しよう。
音楽を構成する諸要素
作曲(C)を構成する要素は、作曲家の思想(I)と彼の技術(T)と、彼が訴えかける対象(A)と、彼の作品を演奏する演奏家(P)であり、この四つの関連性によって規定されている。 即ち、思想が作曲の意図、方向性を規定し、技術は表現を規定する。又、だれを対象に作曲をするかで、その話法や内容が規定され、最終的にどのような音楽になるかは、その作品を演奏してくれる演奏家によって規定されるわけである。 Φc(Ic.Tc.Ac.Pc)=C・・・・(3) I・・・・Idea(思想) T・・・・Technic(技術) 演奏(P)は、演奏家の思想と、彼の技術と、対象とする聴衆、及び作品、即ち、選曲によって規定される。
Φp(Ip.Tp.Ap.Pp)=P・・・・(4) 聴衆(鑑賞)(A)は、彼の思想(どの視点から鑑賞するか)、鑑賞能力、選曲(どの音楽会に出かけるか)、及び、どんな演奏に遭遇するかという四つの関連性によって規定される。
Φa(Ia.Ta.Aa.Pa)=A・・・・(5) さらに細分し、その項目だけを挙げれば、
思想(I)は、普遍妥当性の広さと深さ(G)、それを運用していく人の責任感(O)、及び、実践の度合(E)に裏付けられており、
技術(T)は、感覚(S)、演奏に用いる機構、楽器や声帯の取扱い叉は、作曲上の手法(Mc)、実践の経験や練習の度合(E)、及びそれらを支える音楽観(I)によって構成されている。
ψi(G.O.E)=I・・・・・(6)
ψt(S.Mc.E.I)=T・・・・(7) G・・・・Generality O
・・・・Obligation E ・・・・Experience S ・・・・Sence Mc
・・・・Mechanism 現在の音楽学校における全課程はMcの一字に収まってしまうものであるといえようか。 さて、ピアノやヴァイオリンなど、器楽の独奏曲の場合については、これまでの相関関係の中で述べられるが、管弦楽や合唱やオペラなどになると、さらにいくつかの要素がからみ合ってくる。
まず、声楽曲になると作曲以前に作詞者が関連してくるし、歌劇やオラトリオでは、原作者、脚本家が関与してくる。 poe・・・・Poet(詩人) scr・・・・Scripter(作家)
詩や脚本は、作曲家に規定され、又、作品が演奏者にわたる間に編曲者が介入している場合も出てくる。 arr・・・・Arranger(編曲者) 編曲者は、思想、技術、対象の他に、取り上げる作品に規定され、さらに、演奏者に規定されることになる。
次に、演奏について考えてみよう。 管弦楽や合唱など、演奏形式が大規模にわたる場合や、数人であっても複雑化する場合には、指揮者が必要になる。又、歌劇などの形式によるものでは、音楽監督や演出家が関連してくる。 cnd・・・・Conductor(指揮者) dir・・・・Director(監督) 指揮者(演出家)は、自己の思想、テクニック聴衆、そして作品(C)と演奏者(P)に規定される。さらに、レコーディングや放送などの場合には、これらの他に放送局やレコード会社のディレクターが関与し、ミキサーが関与してくる。 rec・・・・レコーディングディレクター mix・・・・ミキサー 音楽の現場には、ざっとこの様な諸要素が存在している。そして、これらの要素が関連し合って、一つの音楽が創造されるわけである。 。
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