(8) 音楽の形式について
形式には功罪がある。 作曲上、形式を理解し、その法則にのっとって楽曲を構成していくことは、一面において必ず必要である。 特に学生が、その先人たちの経験と知恵の集積からなる法則を修得し、効果を確かめながら、その奥に存在する心理を発見していくことは、作曲家としての成長の過程に欠くベからざるものである。 しかし、一方、形式にあてはめてさえいけば、一つの規格品としての曲を得ることができるという利点は、反面、形式主義に落ち入ってしまう危険性を十分にはらんでいる。 そして、不幸にして心ならずも形式主義という蟻地獄に落ち入ってしまった作曲家は、もはや、実務的な音のデザイナーであり、メニューに従って調理する音職人でしかあり得ない。 もっとも、現代はそういった職業が必要な時代であるかもしれない。 その意味では、より科学的・合理的な形式の樹立(この場合は、人間の心理及び生理と音のパターンの結合)が要求されようし、また、その熟練工も必要である。 しかし、いわゆる芸術音楽の創造を目標とする音楽家が形式主義の奴隷になりさがるということは、即、作曲家生命の死を意味する事態といっても過言ではないだろう。 それだけに、本格派を目ざす作曲家にとっては、一層、形式に対しての適格な把握が要求されるわけである。 そもそも、形式が尊重されるのは、人間の心理、生理両面にわたる体験の淘汰より生み出された法則的真理、即ち、生命への定着を目ざした表現の法則性の故である。 全体観から云えば、音楽の形式も、その中の一つであり、その法則性においては共通点が極めて多い。 ただ、そういった共通点を前提に、音楽の特質的形式、前にも述べた様に、音楽が音という抽象的な手段を用いて、主に感情面の表現及び享受をたてまえとする性質上、他と異なった形式部分、例えば、時間芸術であるが故に、一つの動機を相手に定着させるためには、ある程度の反復が不可欠であるといった様な特質的な形式要素を有するわけである。 さて、作曲家にとって形式は云うまでもなく、目的ではなく、手段でなくてはならない。ソナタ形式の為にソナタを書く様なことがあってはならないということである。 当然の理ではあるが、実際、作曲家が、こういった問題の壁に直面して苦悩しているケースは少なくない。 この場合、“何のためにソナタを書くのか”という原点が明確でなければいけない。云い換えれば、ソナタ形式でなければならない表現意図の必然性から、ソナタ形式が選択されなければならないということである。 従って、ソナタ形式には、それに適応した音楽内容と精神内容が用意されていなければならない。仮に、ソナタの主題に演歌のメロディーが使用されたとしたら、それが特殊な効果を狙ったものでない限り、その音楽は、非常に陳腐なものとなってしまうに違いない。 結論的に言えば、形式の内容によって決定されるということであり、内容とは不可分な実体の両面であるということである。 音楽界には、形式美学と内容美学が存在し、いずれの側面と重視するかと言う対立論争がある。どうして音楽を、その様に分離して捉えなければならないのだろうか。 全ての事物には、表面的形式、内容的性質・総合的本質・物体の有する影響力及び作用などが包含されており、私たちは、この総合的な実体を、一つの存在として認識するわけである。 例えば、私たちの人間関係にしても、外面的形式から相手を把握し認識することは、極めて危険であり、間違いを起こし易い。自分の結婚相手を、果たして写真だけで選ぶ人がいるであろうか。又、人事採用を、履歴書だけにたよる会社があるだろうか。普通、それを避けるのは形式的にたよることなく、むしろ、その内面を認識したいからに他ならない。 「大人になったら、自分の顔に責任を持て」と言われるのも、内容が形式を決定すると言う卑近な例であろう。 話が音楽から逸れたが、この関係は音楽においても全く同様である。 次に「形式は調和の追求である」と言うことである。黄金分割やソナタ形式の考え方は、全てこの発想によるものである。 しかし、単にソナタ形式と言っても、その内容の質量を伴った調和であるから、精神的内容や楽器編成、それに裏づけられた音楽内容によって、千差万別の変化があるわけで、習字の手本をなぞって仕上げる様な、均一的な形式の運用がある訳ではない。 とするならば、表現の内容によって形式は無数であり、典型はあり得ないとも言える。 ソナタ形式を生み出した十八世紀の人々の生活体験と、現代人の体験では、おのずから大きな差異がある。そう言った意味では現代的表現を、いわゆるソナタ形式で行うこと自体が不自然であろう。 内容に調和した形式を与えること、これが作曲家の形式でなければならない。
|