(6) 和声学・対位法
作曲家にとってマスターしなければならない手法は数多いが、取り分け和声学と対位法の二つは欠くベからざるものである。作曲家を目ざす学生が、基本として最初に学ばねばならぬのもこの二つの手法である。 しかし今日、現役の作曲家たちにとって、かって習熟したこれらの手法は、今やすでに死の学問であるといってもよい。 そして学生たちは、先人の学問の遺産としての手法をひと通り踏襲するという意味で勉強するだけであり、多くは、即戦力としては捉えていない。 その最大の理由は、七音組織による表現の飽和現象であろう。 ともあれ、手法の骨格として尊重されてきたこれらの学問を、もう一度問いなおしてみなければならない時がきたようである。 今日までの和声学の修得は、主に数字付低音の方法によってなされてきた。 連続や陰伏を避け、数多くの禁じ手を耳や脳裏に刻み込むことによって、方程式にかなった解答を見つけ出す作業が和声学であった。 プログラムは主要三和音の連結に始まり、次第に複雑化して、数多くの和音連結の処理の仕方を学べるように組まれている。 約300年の間、作曲家はこの道をたどることによって、いかに良い響きを得るかというエッセンスを受け継いできた。 七音組織の和声学は、最も体系化された学問である。 しかし、余りにも体系化されたが故に、現代の作曲家たちにとっては、かえって創造の扉を開くことが出来ない現状である。 和音が自然和音への帰趨性を持っているとすれば、和声も又、自然和音への帰趨性を持っているといってよい。 そして、自然和声の立場から眺めれば、今日の和声学は、A=440c/s和声学というべきであり、しかも基音に関係なく、同じ型の移動形式をとっている
A=440c/s変型和声学といえる。 即ち、我々が全てであると信じてきた和声学も、この様に見ると、やはり無限の和声学の中の一つに過ぎないということが明らかになる。 単純に考えても、人間の可聴範囲におけるそれぞれの音を基音とした自然和声法と変型和声法(七音列のスライド方式)が考えられるわけだから、まさに、その種類は無限と考えてもよい。 その上で、長三和音と短三和音が、私たちに与える影響性の相違が存在する様に、和音及び合音と人間の感受性の相関関係を分析、体系化して、定理や公理となる基本型を確立して行けばどうだろうか。 心理学や生理学が発達している現在、影響性による和音の分類はそれ程困難な作業とは思えない。 例えば、部分的ではあろうが、二つの相関関係を次のように考えてみよう。 まず、和音の状態は、前に述べた様に二音からなる和音から始まって、三和音、さらに数個の音が添加された和音、その他の合音から具対音にまで広がって行くであろう。その出発点を完全一度としてはどうだろうか。
「図・A」
次に、人間の感受性の方向、度合を横軸にとってみよう。
「図・B」
中点は、人間の最も自然な状態であるからN(Natural)であるとしよう。Nから右寄りの方向に移動する程開放的な感情の方向に移動する。 この二つの軸を組み合わせてみると次の様になる。
「図・C」
和音が単純化するほど感受性も端的になる。 例えば、長三和音や短三和音の場は、喜びとか、悲しみという様なかなり明確な感情が喚起される。これに対し、和音が複雑化するにしたがって、和音から受ける感情は中和して、Nに近くなろう。 さらに科学的にしていくならば、もっと詳細な関連が立証されるに違いない。 この中から基本的なパターンを抽出し、分布の仕方を和声上の定理や公式に結びつけることができたら、それは全ての和声に通用するものであり、まさに汎和声法と言うことができる。 作曲家は、基本的な法則をマスターするだけで、無限に和声の組み立てを行うことができよう。 今日まで、この440サイクル変形音列、和声の音響世界こそが全てと思っていた我々が、この無限大の音響世界を知ったと言う事は丁度、今日の天文学の発達によって、この宇宙に地球とほぼ条件を同じくする星が、多数存在する事を理論的に認識したことに等しいのではあるまいか。 今まで述べてきた和声に対する考え方も、その意味では同様に、理論的可能性を指示したに過ぎない。 人類が、宇宙への第一歩を月へ踏み出したのと同じように、遅々としていてはいても、限りない探究によって、一つ一つ新しい音響世界を開いて行くことが必要である。 次に、もう一つの雄である対位法について考察してみよう。 対位法《Contra
Puncutus》は " Puncutus Contra Punctum "即ち、" 点対点
"という意味であり、一つの音に対する他の音の配し方である。 しかし、実際には点は線の断面であり、各音は旋律断面である筈だから、対位法は、”点対点”と捉えるより、線対線”すなわち、ひとつの旋律に対する他の旋律の配し方と捉える方が妥当であろう。 又、内容的に捉えるならば、対位法は一つのテーマによってくり広げられる問答であり対話の形態をとっている。即ち、対位法とは、旋律対話であり、旋律対話法であるといってよい。 そして、西洋音楽の基礎的表現様式に、対位法が生み出されたことは、極めて必然的であり興味深い事実である。 民主的な形態において、人間社会の最も基本をなす形式は対話である。この基本をふまえて、夫婦があり、家族が形成され、集団・国家が成立している。 ヨーロッパにおいては、古代ギリシャの都市国家ポリスの時代から自由な人間としての対話の基礎があった。即ち、自主・平等・自由の精神と自覚をもった人々の話し合い、議論をたたかわす事によって、その共同体としてのポリスが運営され、発展していったのである。後に中世時代になって封建性によって社会を律することになったが、底流における対話の精神は生き続けている。その点、日本における絶対的君主に仕える奴隷的家臣や部分的人間という意味の封建性とは、根本的に、その意味が異なるものである。 この背景の中から生まれた表現様式が対位法であり、後に和声の考え方へと発展していくのである。 定旋律の対して、対旋律は豊かな個性を持ち、変化を保ちながら、しかも。両者の対話は、一つのテーマに従いながら美しく響き合うのが対位法の本質であろう。 この関係は、個性を尊重し合いながら、調和を保っていく人間の生活のあり方とまったく同じである。 連続三度、六度等が嫌われるのは、没個性になるからであり、不協和音の連続は、それ自体対話の基調を成さないからである。 この様に考えてくると、対位法が育った土壌は、古くからヨーロッパに形成されていたことがわかるし、又、その必然性についても十分理解できる。 日本音楽に、主旋律に対する"あいの手"や、少し遅れて同様のメロディを奏する形式は合っても、対位法の様な手法が発生しなかったのは、その社会背景の相違によるものと観ることもできるのではないであろうか。
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