(4) 音階の考察 ピュタゴラスへの挑戦

 私たちは長い間七音組織になれてきた。音階は7音から構成されており、最初に教わる即ち、
基本となる調はハ長調であり、鍵盤楽器では全て白鍵からなる音列であった。
 学年が次第に上がるにつれて調号が増え、短調が出、さらに関係調へと進んだ。
 調号の読み方を習い、主音の見つけ方を教わり、一生懸命になって移動ドを読んだ。そうして長調は、何長においてもドレミファソラシであり、短調はラシドレミファソ(変化の仕方によって3種類にはなるが)の七音であることを認識した。音楽大学では、これらの7つの音をいかに巧みに組み合わせ、又、いかに巧みに操作するかという技術を教育された。
 私たちが音楽活動をする場合、多くはこの認識の上にたって活動を行なってきたといって間違いではない。
 それはそれで良い。確かに七音組織による表現法はたのドレよりも進歩している。
 しかし七音による表現が全てであるという迷信は破らなければなるまい。何故なら、もし七音組織の表現法自体が、天体に輝く星座のたった一つの方法・価値に過ぎないとしたら、そして、その一つのみが開発し尽くされたとしたのであったとしたら、現在、作曲家が心の隅に隠している一抹の不安・・・20世紀は音楽の終末の世紀になるのではないのか・・と云う杞憂が一瞬にして葬り去られるからである。
 これから展開する素材論は、この問題の突破口を目指した音列に対する私案であり、新しい表現法開発のヒントにでもなれば幸いであると思い提案する次第です。
 まず七音列による音階を次の様な一面から理解してみよう。

  擬人法的理解

 私は、これまで音楽は生命体であるとの立場をとってきた。音楽を生命体として捉えるならば、音楽も人間もその大綱的な生命の法則において共通点を見出せるのではないか。
 この発想から私は、人間生活に当てはめて、音楽の仕組みについて理解を試みてみた。
 音列・音階の擬人法的理解もその一つであり、実にスムーズに実感的な認識を得られたと思っている。
 一般的な家庭は、家族によって構成されている。普通は中心に父親がおり、母親がおり、子供たちがいる。おじいちゃんやおばあちゃんがいる家庭もある。これが一般の基本的な単位である。
 音楽の基本単位は音列・音階によって構成されている。家族構成が色々あるように音列にも又種類がある。
 中心音は主音であり、それを取り巻く家族音は(Family - Sound )である。これによって音楽表現の場ができる。
 この視点から七音音列を理解してみよう。
 今、Cと言う音を主音として考えてみると、そのファミリーサウンドはDEFGAB(英語表示)である。
 これを家族に当てはめて考えてみると、中心には主人のC、その主人に常に共鳴して守り立てて行く奥さんのG、そして何人かの子供たちがいる。一方主人は、会社においては上司や部下、同僚などを持っており、その他に趣味の仲間や学校時代の友人などを持っている。奥さんもまた近隣の主婦との結びつきや、PTAやサークル活動など様々な仲間や友人がいる。子供たちにも又同様に個々の友達や仲間がいる。これらは個々の持つ眷属であり、個々の特性に相応しい眷属が結びついている。
 これを大きく家庭としての単位から眺めてみると、個人はそれぞれ自己の場を持ちながら、主人を中心に家庭を構成している。そしてこの家庭の味、雰囲気は主人の性格、特性によって統一されている。即ち○○家の味、○○家らしさである。
 さてこの家族、即ち7つの家族音が円形になって団欒をしている。
 話の中心はC氏で、その話題に一番共鳴するのは奥さんのGである。Gは共鳴しながらもCに追従し、Cを際立たせている。又娘のFはやや趣を変えながら共鳴し、時には父親んであるCに、又あるときは母親であるGについている。時々他の子供たち、DEABが話に参加する。こんな状況での話は、明るく明快な雰囲気をかもし出して行く。
 これがハ長調である。
 ところがここにEの代わりにE、A,Bの友達のEb、Ab、Bbが話題に加わると、途端に話のムードが一変して沈んだ話題となってしまう。これはハ短調であり、Cの持つ二面性であり、これはこの構成メンバーによって引き出される。
 又、これにBbやDbが加わってくると、Cは主体者としての機能を失い、Abを中心とした話題の、新しい家族音の構成になってしまう。
 これは話題の転換である。
 先ほどの例をとれば、子供たちが学校での様子を互いに話し始めたとき父親は聞き役にまわる訳である。又、話題の転換は共鳴関係が変化し、それぞれの音は先程とは違った面の特性が引き出される。これが転調である。
 即ち音階は主音と他の音との関係性によって決定されるものであり、主音の中に、本来備わっている多面性の一面が表出して、表現のニュアンスが創りだされるのである。
 関係性とは共鳴度であり、主音に対してどの音を共鳴させるかによって、主音の表情が決まり、調性が決定するのである。
 今、一つの例をあげて音階の理解の仕方を示したが、音階を人間関係に擬して捉えることによって、新しい音階の構成や、転調の発想がより豊富になり、適切になればしめたものである。
 十人十色、人間にはそれぞれ違った個性がある。同様に音にも十音十色、それぞれ違った個性があり、特性が異なるはずである。CとD、FとAはその音自体違った特性がある。しかしハ長調もニ長調もヘ長調もイ長調も全て同じ七音であり、同じ関係性の家族を構成している。
 どの家庭も全て7人家族であり、みな同じような生活であったとしたら、いったい人間生活はどのようになるのであろうか。

「音にも又個性がある」

 人間に個性があるように音にも又個性がある。たとえC氏とD氏の家族が共に七人の家族から
構成されているとしても、家の構造が異なり、仕事や趣味等が異なれば当然週間や生活の形式、
話題が異なる筈である。
 音階においても主音のもつ特性(物理的特性、人間への影響性、眷属音の数と種類等)によっ
てその構成は変化するのが自然である。
 しかし私達が現在使用している七音音階は、主音に関係なくまったく同じ種類であり、同じ
関係性より成り立っている。即ち、音楽に関する限りC氏もD氏も同じ十二階建てのマンション
の中で階が違っているだけで、同じ型の家にすみ、同じ家具で生活し、奥さんの子供も同じタ
イプ、同じ年令、勤務先や学校も同じなのであり、同じ形式で生活し、同じ話題が話し合われているのである。
 この画一化された材料によって何百年も音楽創造を続けてきたとすれば、マンションはスラム化し、もは新しいものは何も創れないという作曲家の嘆きは痛いほど理解出来る。
 そこで、音の個性、即ちその特性について考慮を加えながらもう一度音列、音階について考えてみよう。
 音階とは主音と眷属音との関係性を配列したものである。
 関係性とは共鳴度であり、その種類と数によって、その主音の音列が成立する。
共鳴度は振動数の比によって割り出される。振動数の比と協和音の関係を示すと次のようになる。

絶対協和音
1:1 完全1度
1:1 完全8度 
       
完全協和音
2:3 完全5度
3:4 完全4度

中庸協和音
3:5 長6度
4:5 長3度

不完全協和音
5:6 短3度
5:8 短6度

 対比する数値が単純なものほど共鳴度が高いわけである。
 又さらに、音階の基礎となる主音の特質、即ち、主音の有するサイクルによって共鳴音の数も異なってくる。
 例えば、240サイクルの音は対比が7及び9の共鳴度が非常に少ない。もしくは無い。
 何故なら240/7=34.185714・・・となり、純粋に物理的な見方からするならば対比が7となる共鳴音は現われてこない。9の場合も同じである。逆にいえばこれが240サイクル音の特性であるといえる。
 このように決してどの音にも同じ、性質を持つ共鳴音が同じ数だけ従属している訳ではない。
 丁度、私たち人間社会にも各個人の個性があり、友人関係、人間関係の豊富な人と少ない人があり、各々が別の分野、別の位置にあって人間社会を構成しているように又、音の世界にも同じ原理が適応されるであろう。
 従って音列・音階とは、主音の共鳴度を分離して配列したものと理解してよい。この音列を
逆に収れんすれば全部が主音におさまってしまう。これが主音の特性であり個性である。
 この事からも主音の異なるすべての音階がまったく同関係に置かれているのは極めて反法則的であるといわねばならない。

  「共鳴音郡」

 さて、現実に宇宙で響きあっている音の状態を分析的に眺めてみよう。
 今、一つの音が鳴ることによって次のような共鳴現象が起こる。
第1次共鳴  1:1、1:2、1:3、1:4、1:5・・・・
第2次共鳴  2:1、(2:2)、2:3、(2:4)、2:5・・・・
第3次共鳴  3:1、3:2、(3:3)、3:4、3:5・・・・
第4次共鳴  4:1、(4:2)、4:3、(4:4)、4:5・・・・
第5次共鳴  5:1、5:2、5:3、5:4、(5:5)・・・・
・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第∞次共鳴   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 縦には第一次共鳴から第無限大次共鳴まで無限の共鳴層に広がりを持ち、横にもやはり無限の広がりを持つ共鳴現象である。
 即ち、音階は横に広がりを持った共鳴層の積み重なりであると考えることができる。
 そして、次数が増すに従って共鳴度の密度は希薄になる。
 この共鳴の広がりの中から人間の感度に合わせて取捨選択するわけである。
 又、この共鳴の広がりを個々の音として考える時、基音の持つ眷属音の群れは各次の共鳴層
に広がった共鳴音群と捉えることができる。即ち、共鳴現象は第一次共鳴音群、第二次共鳴音群、第三次という様に捉えられるというわけである。
 次に、これに基づいていくつかの基音を上げ共鳴音群の様相を比較してみよう。
 まず先程例にあげた240を基音にした場合を表にまとめてみよう。

  「表・1」

 (但し、音階を論ずる立場から基音よりオクターブ内の分布とする)

   これらの音をサイクルの順に並べかえて整理してみると次の用になる。(基音よりサイクルの少ないものについては潜在共鳴音として、ここには含めない。
 又、左の欄は240c/sを音と換算した音の関係を示したものである。)

  「表・2」

  即ち、240サイクルの基音による第10次共鳴音群までの共鳴音による音列は、実に19音音階を構成することになる。
 第8次音群でまとめると15音音階になり、第5次でまとめると10音音階になる。 さらに第4次まで縮少すると6音音階になり、第3次までにとどめると
 
 「表・3」

 の様に4音音階になる。
 次に100サイクルの音を基音にして同様に音列を構成してみよう。

  「表・4」

  この表によって解るようにこの基音には、第3次、第6次、第7次及び第9次共鳴音群が欠如している。
 これをもって音列を作ると16音よりなる音階が得られる。
 
 「表・5」
 
 さらに、第8次共鳴音群でまとめれば12音音階、第5次共鳴音群までの音列を作ると
 
 「表6」
 
 の様な8音音階を得ることができる。
 240c/sと100c/s、この二つの場合を比較してみよう。明確にその違いが理解出来よう。
 表1と表4の上に表れた共鳴層の分布の相違、これが240c/sと100c/sの眷属音の相違
であり、特性である。
即ち、音にはそれぞれに個性があり、その有する共鳴音群も全て異なっている。
 したがって、音列の関係性を無視してCを基音とする音階をDのそれに平行移動させるという、西洋音階の考え方は非常に反自然的な操作であることがわかる。 
 確かに、運用上の問題、楽器や演奏の問題や人間の聴覚の問題等が積み重ねられて今日の音階が定着してきたことは理解できる。
 しかし、今や音の配列の関係性中心の考え方から音中心の考え方への転機を計る時が来たのではないかと思われる。
 この視点の転機によって表現の世界は無限に開かれるのではないだろうか。
”240c/sの第5次共鳴音群までの音列によるコンポジション”叉は”100c/sの第4次共鳴音群までの音列による創造”等、その意図によって自由自在に音の配列を構成することができる。
 科学の技術やコンピューターの発達した現代、これらの音列構成はいとも容易なことであろう。宇宙には無数の惑星や恒星が存在している。そして、私たちの地球における人類のような高等な生物の生息する星がいくつもあると考えられている。
 考えてみれば、私たちは従来の音階になれ過ぎて、音楽は弦・管等の振動の長さから割り出した7音階によって表現されるものであるとの既成概念に縛られ過ぎてきたのではないだろうか。
そして、その結果音楽の限界という袋小路に行き詰まってしまったのではないだろうか。
 しかし、A=440c/s、C=264c/s(平均率の換算による)とした7音階が大宇宙に絶対性をもった唯一の音列であるということは決してあるまい。
 遥か彼方、アンドロメダ星雲の恒星においては333c/sを基音とした素晴しい表現様式が完成されている可能性は十分あるのであり、又、他の天体ではさらに球体の振動や、面の振動から割り出した楽器等から別の音列によって音楽活動が展開されているかも知れない。
 今まで、音楽の骨格であった音列、音階は均一の関係性のパターンが中心となって構成されてきたが、ここまで述べてきた様に音自体に視点を転換して音列、音階を発想する時、作曲家は永遠に音列の束縛から解放され、新しい表現様式の創造に向かって無限に意欲を燃焼させることが可能ではあるまいか。
 先に人間生活を借りて音列のあり方を述べてきた。
 人間一人一人、皆、顔やかたちや性格が違っているように、音にも皆個性がある。
 しかし、だからといって、人間社会を35億それぞれ別の視点から捉えないように、音の世界も個別に無限に分類することは不可能であり、無意味である。
 ただ、国家や民族にはそれぞれの風俗週間があり、生活様式の相違がある。
 日本で行われていることをそのままアメリカへ、ソ連へ、中国へ、即ち人相も性格も言葉も国土環境も異なる国へ平行移動させたらどうなるだろうか。さぞかし困難な事態が続出するに違いない。
私たちの音楽世界では、その様なことが堂々とまかり通っているのである。
 個性を尊重し、生かしながら全体の統一を計っていく。これが音列、音階を構成していく要点であろう。