(3)音楽家と人間性
音楽家の生活と音楽活動は全く別次元のことであり、この二つは切り離して見てゆくべきで あるとの考え方がある。
 人間的にどうあれ、作品や演奏さえよければいいのであって、音楽家は表れた音楽を持っ てしか評価できないし、また、それが妥当であるという意見である。
 一般的に、いわゆる音楽家や芸術家と言えば、世間のことには頓着無く、というより無視 をして行動するのがいかにも音楽家らしい、芸術家らしいとする誤った概念がある。  その結果、いい作品を書き、または演奏活動をすれば、人間としての行動に欠陥があって も許容される、との錯覚が生まれた。
 この様な論理が許されるとするならば、同様に政治家や経営者は、その政治的技術、経営 者的手腕に長じていれば、後は何をしても許されるということになる。
 もし全ての分野にこの傾向が浸透すれば、人間社会は信頼のもてない荒廃した社会になっ てしまうであろう事は容易に考えられる。
 政治の技術や科学の才能や、経営的手腕等は、高い地位になればなるほどそれをいかなる 方向に使って行くかが重要なのである。その方向を誤れば、大きな社会悪につながってしま うのであり、その政治家、経営者の人間性・姿勢・思想と言ったものを無視して考えること は出来ない。
 音楽の影響性は、人間の内面に向かって働きかける故に、形として表面には表れにくいが、 その力は非常に多大であり、決して軽率に考えてはならない。
 結局音楽は、技術を駆使していく人の人間性によって決定されるものであり、人間性とは 生き方である。
 また、前のこうで述べたとおり、音楽は生命活動の反映である。創作された作品の中には、 その作曲家の思想、人生観、価値観、更にその瞬間の生命の動きが反映し、凝縮されて納ま っている。
 したがって、無意識のうちにもその人の生き方、生活はそのまま厳しく作品の中に表れて いると見てよい。
 作品の寿命は所詮、作品の中に込められた作曲家の生命活動の強弱、表現する内容の普遍 妥当性、そしてその表現の技術、そして更に作曲家の境涯、生活態度と言ったものによって 決定される。なぜなら、作品に込められた内容が、聴衆の生命にどれだけ広く、深く、そし て強く共鳴現象を起こさせるかということだからである。
 これは演奏家にも全く同様の原理である。
 この様に考えてくると、音楽家は、世間のことにお構いなく、気ままに生活し、人の迷惑 を考えないと等ということではならないし、その様な音楽家は、誰にでも感銘を与えるよう な作品を書き、演奏することが出来るわけがないはずである。
 したがってよく見かける「音楽家らしい」といった乱れた頭髪や服装、或いは華美な姿、 形はたまたまその人が芸術に打ち込んでいるために神経が回らなかったり、或いはそういっ た美的感覚を持っているに過ぎないのであり、人間的にも、また生活態度もそうであるとい うのでは決してない。
 逆に巷間によく見かける、いかにも「音楽家らしい」というタイプの音楽家こそ、外見上 の姿だけを真似た、猿真似上手な、似非音楽家と言われても仕方があるまい。
 音楽家は、表現のテクニックを最大限身につけなければならないと同時に、人間的にいか に成長するかという日頃の生活態度、姿勢もまた重要になってくる。
 したがって私は、真の音楽家とは、最高の音楽家とは、社会の中のひとりの人間として、 大衆の心を敏感に察知し、人間性豊かな、しかも高い目的感のもとに、最高の技術を持って 音楽を作り語る人物であると云いたい。
 市場の原理と効率に追い回され、有名になることや利益を目的としたり、或いは今日一般 に考えられているような、ガンコで、ヘンクツで、人間的欠陥のある音楽家が本当の音楽家 であると思われたりする事が有ってはならないと思うのである。
 そしてこれは音楽家ばかりの責任ではなく、大半の責任は聴衆の側にあるのではないだろ うか。