2.教会旋法の解析

 ユダヤ・シリア系の古代音楽が習合されて、ギリシャ・ローマの音楽と、その楽理が 加わってカトリック教会の典礼単声曲が集大成されたのは六世紀の末のグレゴリウス一 世の時代でした。世に謂うグレゴリオ聖歌(Gregorian chant)がそれです。

 当時は未だ、今日のような縦線のない横四線のネウマ譜で採録され、世俗音楽とは全 く異なった聖なる教会調として旋法の数々が形式本位に整理されて教会旋法 (Ecclesiastical modes)となって、長い中世を謳歌し続け、やがて現代の五線の譜表 の上に翻刻されたのは十五・六世紀頃と言われています。

 その総ての旋法は下行音列式で、正格(Authentic modes)ドリア・フリギア・リデア・ミクソリデア・エオリア・イオニアなどの6種の曲調に纏められ、またそれぞれに 完全五度上から下行する変格旋法(Plagal modes) を持ち、合計12種類となっています。

[譜例・13]


 譜例(13)の「A」から「F」までは正格旋法の各種で「A’」から「F’」までは その変格旋法の各種です。これら各旋法の両端は基音とその下複合音律で、そのいずれ かが終止音(Finalnote)とされ、「A」はドリア旋法(Dorian mode=d'〜d)です。その下終止音 d から完全5度上から下行する変格旋法が、「A’」のヒュポドリア (Hypodorian ーmode a〜A)です。 

 ここで試みに「A」「A’」と続いて演奏してみて下さい。すると双方が一つの旋律と 見ても少しも違和感のない一つの曲調に支配されていることが解かります。

 「A」の対旋律と言うより、当時は未だ単音楽時代でしたので、寧ろ変奏的旋律が「A’」 だったと考えられます。つまり正格と変格の違いは、その終止音がDであったかAであっ たかの違いから、称別されたものと見るべきものだったのでしょう。

 しかも今日の長調とか短調とか言った並行調的な感覚とは少し異なった、その発想の 前身だったものと見ることが出来ます。ともあれこの段階では一応、主旋法と属旋法と 言った位置づけにしておいて、その深追いは避けておきます。

 続く正格「B」はフリギア旋法(Phrigian mode=e' 〜 e)で、その変格が「B’」のヒュポフリギア(Hypophrigian mode =h 〜H)、「C」はリディア旋法(Lydian mode =f' 〜 f)、「C’」はヒュポリディア(Hypholydian mode = c' 〜 c)、そして「D」はミクソリディア旋法(Mixolydian mode = g' 〜 g)、「D’」はヒュポミクソリディア旋法

(Hyphomixolydiann mode = a' 〜 a)、「E」はエオリア旋法(Aeolian mode =a' 〜a)、「E’」はヒュポエオリアン(Hyphoaeolian mode = e' 〜 e)、そして最後の「F」はイオニア旋法(Ionian mode = c' 〜 c)、「F’」はヒュポイオニア旋法(Hyphoionian mode = g 〜 G)等々の12種類です。

 こうして現代の譜表上に整理されて見て、改めて気づいた事柄は、「B」と「E’」、「C’」 と「F」、「D」と「F’」の三類は全くの異名同音列であり、「A」と「D’」、「E」と「C’」 はそれぞれ複合音程関係にあり、曲調としての側面から見れば、同調音列と見做す事が 出来ます。このような実態から類推されるものとして、正格旋法とその変格旋法の対峙 は、別々の楽曲として演奏されたものではなく、同一楽曲の中にあって、そのいづれか が主旋法又は属旋法として、楽曲進行の過程にあって、支配的音列式の組み替え、つま り今日的解釈を以てすれば、一種の近親音転調のような感覚のものでなかったかと、見 ることも出来るわけです。

 さらに総括してみれば、6種の重複音列から考えて、その実質は六つの音列式に集約 されて来ます。これらはまた、漢の六律六呂と相似して来るわけです。即ちこれは第二 の東西の暗合と言えるわけで、さらに第三の暗合として、曽候乙墓の大型編鐘の配列様 式でも解かるように、その音列意識は下行旋法だったのではなかったかと言えそうでう す。

 これまでに対比して来た慣例律と全音階的五音七声、そして六律六呂と集約音列数、さ らにほのかに見えて来た下行旋法型等々と、次第に両極音楽の異質同型的として、その 相似点が増えるに従って、筆者はある程度の決断の必要に迫られて来たのです。だがし かしいま一度、早計の失を避けて西洋楽理の搖動期を考察してみることにしました。

 そこで現代音楽のオリジンとして、十八世紀のドイツ大学楽派の展開した音列基準理 念を解析することにしたのです。

 それは各教会旋法に対して、古代ギリシャのテトラ・コルドを照合させることにより、 その未知なる音列成立動機と機能性について、科学的解析を試みたと言われていること です。

次の譜例(14)は、当時の資料に基いて譜表上の音列式を、分析図式に整理したもの です。

[譜例・14]


 譜例(14)の A は、譜例「12」の(イ)の上複合音程d’〜a=TC1で、続 く(ロ)のg〜d=TC1がDJされた音列式と解析されたドリア旋法の音列構造です。 続く A’ のヒュポドリアはa〜e=TC�の第二核音のeが重複してCJされ、基音 のaがオクターブ下のAが加わって、オクターブの音列を構成したものと解析されたも のです。

 この様なDJ型とCJ型の構造を、図式で示せば次の通りとなります。



 この様に教会旋法に対して、テトラ・コルドの尺度を通し、その解析を幾度となく反 芻してみることは、一見無駄な労力のようでいて、実は将来東洋各地の声曲や楽曲を採 譜し、譜表上の旋律的素材に対して、内在する慣例律的音列意識を判別する際の、迅速 性をはかるために大きな扶けとなるものです。従って諄いようですが是非ともこれを軽 視することなく、繰り返し行ってください。愚直な実践こそ大きな実力を調養するため の着実な素養となることを決して忘れないで頂きたいものです。早計な理解力は、英知 のように見えても、その実は等身大の実力をつけるための最大の障害でもあるわけです。

 さて前にも少しく言及した通り、教会旋法の特質は音列式の両端に終止音を持つと言 う、構成的実情を加味して推判すれば、DJ型の音列式と類推された、「A」「B」「C’」 「D’」「E’」「F」の各旋法と比較して、CJ型の「A’」「B’」「C」「D」「E」「F’」 の方が。その終止感が中間的で不安定であることが解かります。そして長い期間にわた り単声曲だけの体験を通して、次第にCJ型の終止音は避けられる傾向となり、やがて 中世の後半からオルガン器楽の独立と共に、音楽美意識の高揚に伴って、DJ型の楽曲 に定着していった事実を、旋法淘汰の経緯を科学的に明かしたわけです。

 しかもその論証法は極めて控え目だったことは、当時の教会の権威に対する、未明な 配慮もあったかに見受けられます。ともあれ教会旋法の持つ歴史的形式主義の感覚的楽 理に対して、初めて音律論の立場から、科学的なメスが加えられただけでも、その意義 はまことに深いものがあったと言ってよいでしょう。

 しかも全音階的ダイヤトニックに対して、音階としての絶対条件は、テトラ・コルド �単位のDJ型という、側面的音階楽理の第一歩を力強く踏みだしたという意味からも、 見逃すことは出来ない事柄だったのです。

 いうまでもなく教会旋法の成立には、その前提には単声曲が厳然と存在し、その音域 もオクターブ内が守られていたと言う、時代的声律意識から推してCJ型の実態は、止 むを得なかった結果だったと見てよいと思われます。しかし複音楽的器楽曲の響態を想 定して、これらCJ型の音列式は、その上下延長線列上の複合音程音列のなかに隠され たDJ型の存在があり、CJ型の第一核音は隠された音列部分の第二、第三核音だった と考えられるわけです。

 こうした事は本講の眼目でもある、東アジアのペンタトニック全般にわたって、CJ 型の存在は、テトラ・コルドの構造的類推型の部分的顕れ、または音列構造の組み替え、 つまり転調軸としてはあり得ない事なのです。このことは、やがて東アジアの音楽に戻っ てから詳しく説明もし、またご理解頂けると思いますが、飽くまで教会旋法に限って言 うならば、2単位のテトラ・コルド構造が同一である限り、CJ型の6種の旋法は、次 の譜例「15」で示すような、2種類の音列式のなかに統合されてしまうものだったで あろうことを、改めて確認しておいて頂きたいものです。

[譜例・15]


 譜例の(イ)は、フリギアまたはヒュポエリア旋法の下行延長上に、複合音程列を構 成して、「A’」「B’」「E」3種のCJ型が統合されていることを、解析しやすくしたも のです。

 そして続く譜例の(ロ)は、ヒュポリディアまたはイオニア旋法そのもので、「C’」「D」 「F’」のCJ型旋法と照合してみればそれらの各延長線上の潜在的DJ型の音列式の複 合点(第一核音)が、即ちCJ型として露頭した部分も見られると、御理解頂ければ、現 段階ではよしとしておきます。

 従ってCJ型で重複された核音こそ、音列として重要な支配力を持つ第一核音でもあ り、よって存在する二度間隔の3連続音列はそのその中心の音に終止すると言う、慣例 律の定則性にも適合した機能性までも、相乗されていることまで、意に深く止めておい て頂きたいのです。

 さて次は、教会旋法考察に当たって、見逃すことの出来ない《リーマンの二元論》に ついて、少し説明を加えておきたいと思います。

 1, 878年以後ドイツの大学音楽院で教鞭をとりながら音楽辞典をはじめ、数多くの研 究著書を遺したリーマン・フーゴ(Rimann 、Harl Welhelm Julius Hugo 1、849 ~1、919)は、それまでの教会旋法研究の中心は、単声曲的旋律論だったところに、突然その音列 式上

に下和音を立てて、複音楽的展開の立場から自然的調性(Natural Tonality)の潜在性を発見し、自然音階上の主調(長調)と平行調(短調)の本質的二元性を明かそうと したのです。

< 純短調は三つの下和音(短3和音)から構成されて長調(上和音)と完全に対置さ れるものであり、この考えを推し進めると、その音階(音列)も上の基音から下方に向 かって、フリギア旋法の形が純粋の短調の音階とも考えられる >

 ここで謂う純短調とは、自然的短音階のことで、自然音階つまりピアノの白鍵だけの 上に立てられた短調音階(下行音階)の事です。

[譜例・16]


 譜例「16」の自然的短音階は、エオリア旋法と全く同じで、この旋法の変格に当たるヒュポエオリアは、リーマンが提起しているフリギア旋法と全く同じ音列式です。そ こでリーマンの言う「長調と完全に対置」とは長調の下から上に積み上げる3和音と全 く対置する意味とすれば、これは一寸おかしなことになって来ます。何となれば長3和 音もまた、ヒュポイオニア旋法の音列上に立てられた三つの下和音でもあり、その正格 のイオニア旋法こそ、今日の全音階ダイヤトニックの下行音列そのものなのです。

 ともあれリーマンの説通りに、フリギア旋法(ヒュポエオリア)の音列上に三つの3 和音を試みることにしてみます。三つの下和音とは主・上属・下属ですから、当然それ は下行四度と五度の音律です。

[譜例・17]


 譜例「17」の(ロ)の3種の下和音は、確かに今日の自然的短音階の主和音(A moll)、上属和音(E moll)、そして下属和音(D moll)となっています。ここでいま一度譜例(13)の「E’」と「E」を検討してください。

 筆者はこのリーマン着想から類推して、長三和音もまた下和音で得られることを知っ たのです。参考までに、続いてヒュポイオニア旋法の上に三種の下和音から長三和音を 試みてみました。

〔譜例・18〕


 譜例(18)の(イ)には、截然と今日の長音階の3和音が成立しています。そして その正格旋法のイオニアにも、今日の長調の自然音階の下行音列があります。

 前の譜例「13」の「E’」の音列に成立した短3和音の今日的短音階はその正格の「E」 の音列式の中にあると言う、長短二者の整合性から推判して、教会旋法の正格と変格の 関係性が愈々見えて来たようです。

 やがて対位法から和声学へと展開するべき基層音列としての5度の相対的対照だった わけで、現代的視点から見れば、やはり前述の通り主旋律対和声対旋律としての、前身 を示していたとも感じられるわけです。

 そして改めて確認できたことは下行旋法には下和音がもっとも適応していると言える 事です。 

 漢の六律六呂の場合は、十二律の上に構成された音列式で、従って多くの嬰(sharp) や変(flat)を必要としますが、教会旋法の場合は、その総てが自然音列の上に構成さ れています。いづれも無意図的調性感として考えて見ても、六律六呂の方が一歩も二歩 も先んじていたようにも思われます。しかも下行型旋法とみられる共通性から、下和音の密集型があの笙の合竹ではなかったのか、もしそれで整合性が得られるとすればこれ は全く大変な事になります。二千有余年と言う長い時間の闇の中に、いつしか韜晦され てしまった摂理の発見と言っても過言ではなくなって来るわけです。

 本講の「はじめに」でも申しました通り、これまで現代的和声感覚で様々種々に展開 と応用を試行して来た、東アジアのペンタトニック音楽に対して、抱き続けてきた一種 の後ろめたさ虚しさに光が射した感を隠すことが出来ません。目の前が明るくなったと 言うべきものでしょう。

 それは下和音と言う、もう一つの音空間が厳然として存在していた事です。と言って も漢の五音七声は止むを得ずこれまでの習慣に従って、また将来の展開のために、一応 は上行音列式として扱ながら、その意識には下行旋法としての見立てに基づき、上行型 のテトラ・コルドと下和音と言う二次二元的尺度を照合させ、改めて再度検討を加えて みることにしました。

 これまで何となく模索の繰り返しと言う遠回りをしてしまった様ですが、時としてけっ して徒労とはならないものです。当時筆者は胸も弾む思いで、再び長安の楽理にプレー バックしたものでした。

 それにしても十八世紀のドイツ楽派の古代音楽研究は筆者にとって予期せぬ恩賚となっ たものです。ここに改めてドイツ楽派の諸先賢に対し、衷心より敬意と感謝の念を表し つつ、本論に移ることにします。