(二)基本的音律の確立

1.古代の慣例律

 上古代の中国大陸では、すでに春秋時代中頃(BC.500〜)からエンゲメロディー (Enge melody)と言う、2音または3音から4音までによる音列を意識した旋律の声 曲があったと見られています。

 当然これらの声曲や、それに伴う器楽による奏楽は、絶対または相対的音程に支配さ れていたものではなかったようで、寧ろ無意図的感性次第と言ったものだったわけです。 それは自然人類的音楽史の上から見ても、体鳴楽器もしくは原始的気鳴楽器による声曲 の時代に思いを巡らせれば、いずこも大同小異の音楽実態であったことは、いまや専門 的通説とされているようです。

 特に中国古代の音楽を考えるときは、今日でも辛うじて発音可能な楽器類が数多く遺 されているところから、これら現物資料を確認した上からも、エンゲメロディーとして の音律感が主流だったと汲み取ることが出来るわけです。

 紀元前十五世紀の殷の時代(BC.1400〜)にして、はやくも青銅器文化の全盛期を迎 え、発掘品とは言いながらもその素材的耐久性が幸いして、殆ど風化することのない鋳 造器具類が国家的規模で保管されてきたことは、遍く知られているところです。  

 やがてこれら青銅製器具の中から、祭祀用楽器として編鐘と言う固有楽器が造られだ したのは、東周時代(BC.771〜405)の末期と伝えられています。編鐘とはやや扁平 の小型の鐘で、我が国の西国の遺跡を中心に出土した銅鐸の縦の寸法を短くしたような ツリガネ型のもので、大小の順に枠木に吊した体鳴楽器群です。その一組が通常5個か ら8個単位で複合音程の音域を広げ、最大は3段の枠に65個まで達したものもあります。

 当然のことながら、製造年の古いものほど各鐘間の音程が曖昧で、その音律の順位に も規則性が乏しく、従って音列意識は全くなかったかのようで、我が国でこれまで出土 した土器やXのもつ音律感の恣意性に極めて近かったものと考えてよいでしょう。

 これら編鐘の音列型に定則性が感じられ出したのは、紀元前三世紀ごろ、秦の始皇帝 が中国全土を統一(BC.221〜)した以後のものに多くなってきています。こうした傾向は同時にまた中国古代における正俗(支配者と被支配者)にわたる慣例律の合理的進 化の実態を、如実に物語たっていると言ってよいものです。

 しかしながら鋳造製の鐘と言う技術的水準から来る弱点は、倍音律の乱脈さとして、そ の音律の揺動性は避けることは出来ません。勿論古代の音楽感性の未開性も手伝って、音 列とか音階とか言った規則性より、音高の順列と言った方が適切かも知れません。

 さて慣例律の本論に移る前に、ここでひと先ず概念的にもその疎通を計るために、少 しく説明を加えておくことにします。

 一口に言って慣例律とは、音という表出響態に関する、表現文化としての嗜好性と言 うことが出来ます。そして律には、音律と律動と言う時間と瞬間のような一体不二の二 面性を兼備した、所謂音空間としての解釈がなされるべきでありましょう。

 つまりここで言う音律の延長線が曲調であり、律動の延長線が曲態となってより具体 化して来るわけです。

 巨視的に言えば西洋と東洋、これほど截然と音楽の嗜好性を異にする傾向現象もあり ません。これを徐々に狭めて細分すれば、隣接国家地域・国家間・同一国の地方別・県 別・郡別と進んで、更に微視的に見て個々の家庭別の嗜好性や価値観にまで及んできま す。

 子守歌とか『わらべうた』などのように、幼い頃からよく耳に馴染んだ曲調や曲態を 音列感や嗜好性の母胎として、やがて成人して後も、日頃はすっかり忘れてしまった筈 のそれらを、音楽的感応という縁に触れて無意識のうちに思い出させるもの。それが嗜 好する曲種の基準となっていたり、また音楽的好尚感性に対して無為図的に影響を及ぼ しているもの。つまり慣例律とはこうした音律的感性の謂でもあると言うことが出来ま す。

 続いてこれを律動と言う側面から考えてみれば、嬰児がなにかを訴えるように泣き出 してなかなか止まないとき、母の胸に抱かれると直ちになき止んでスヤスヤと眠ってし まうことが間々あります。これは長い間母の胎内で聴いて来た母の心臓の鼓動から離れ たと言う、本能的不安感によるものと言われています。

 こうした響態的律動本能の延長として、成長の課程から聴き馴染んだリズムには、安 心感を基調とする解放感を伴い、これこそ無意識の律動的価値観の支配する慣例律の本 質と言えるわけです。

 さらにこれを広義に思えば、ブラジルのサンバとか、アルゼンチンのタンゴなどのよ うに、民族的リズム感として、またエスニックミュージックとされているものの個性的 曲態の律動感の基層をなしている、と見ることが出来るわけです。

 こうした慣例律を、東アジアという限られた地域の各国間の声曲的曲趣を通してみれ ば、今日様々な声曲となって伝えられた曲種の原調と見られるエンゲメロディーの中に は、旋法としての法則性が確かに存在するようです。そしてこの法則性の実態はこれか ら揚げる3種類に限って、動かすことが出来ないほどの音列的支配を強く感じられます。

 先ずその法則の1とは.2つの音で成り立つ旋律は上音の音が強い支配力をもつとこ ろから、上音で解決することが多いと言うことです。〔譜例(1)参照〕

[譜例・1]

 譜例(イ)は江戸俚謡『さくら、さくら』の第一動機とその中間解決型です。 la, la , si と言う3シラブルからなる2音の旋律です。もしこれが(ロ)のように si , si , la と下行して終ったのでは、(イ)のような安定した解決感がありません。つまり法 則(�)の上音支配の上音解決が、自然な慣例律だと言うことがわかるわけです。

 我が国の場合は2音旋律の範例となるものが今日極めて少なくなってしまいましたが、 中国大陸各地の小数民族の場合には2音声曲の共同体と呼びたい程に、よく聴くことが 出来ます。

 中国四川省の南部高原地帯の、貴州省に居住する苗族やチワン族に伝わる歌墟の芸態 は、我が国の古代の《風土記》や《万葉集》などにも記された習俗芸能、『歌垣』(X歌) と全く同様のものを今に伝えるものとして有名です。この芸態の流れの中の始め、対歌 と言う村を訪れた男性群に対して、門を閉じたまま中から女性群が一斉に斉唱する声曲 が,sol と laの2音だけの旋律です。〔譜例(2)参照〕

[譜例・2]

残念ながら筆者には、耳からの言語歌詞記入能力がないため、便宜上母音詞章に置き替 えたたものとしましたのでご了承ください。

 次ぎは3音構成の旋律を考察してみましょう。この種の旋律は ' 40年代ごろまでの我が国の『遊び唄』のなかに、数多く遺されていたので、年輩者の中には記憶されて いる方も多い事と思われます。〔譜例(3)参照〕

[譜例・3]

これもまた誰でもが一度は体験したことのある『遊び唄』の代表的旋律です。

 まず譜例(ロ)に記された、 do , re , mi と言う長2度音程の3連続音から構成された、本格的エンゲメロディーです。この場合の3音はどのように旋律型を変えても 中間の re で終る以外に、全く解決の方法がありません。 re の持つ状況的支配力は、東アジア領域では絶対的なものがあると言っても決して過言ではありません。従って東 アジアでは、一部の地域を除いて do には主音としての機能はないと言える所以でもあり、これこそ東アジアにおける慣例律の真骨頂とも言えるわけです。

 またこの旋律のシラブルネームをなぜ fa , sol , la としないで、Fdur(ヘ長調)の調号を付して do , re , mi としたかについて、特に留意していただきたいものです。

 このことは本講が進むにつれて自ら得心がいく問題でもあり、一応ここでは筆者がこ れまでに修得した、五音階旋律の調性的音列の解決法について部分的な説明をしておく ことに止めておきます。〔譜例(4)参照〕

[譜例・4]

 つまりアジアの五音階音楽には、沖縄の陰音階と、東南部のガムラン系音楽を除いた 殆どの旋律には、その旋律的移行の傾向性としてfa があれば sol に進まず, fa に続いて la に進み、 sol があれば fa と下行せず、 sol に続いて mi に下行するものが多いもので、

これは習性と言うより慣例律的支配力と言うべきものです。今後この類の範例は数多く 出てきますので、現在ここでは長2度音程間隔の3連続音列は必ず do , re , mi とソルフェージュすることを、脳裏に強く刻み込んでおいて頂きたいと思います。

 これはまた近い将来、対象となる旋律の中から、その楽句や歌詞ごとの調性(支配的 な音列)をいち早く解析し、それに併行する低音部や和声的進行を創り出すためには、最 も大切なキーポイントともなる3音列であることを、合わせて記憶に止めておいてくだ さい。

 ともあれ中国全域の『わらべうた』や西南部の雲南省そして海南島などに散在する小 数民族達の声曲のなかにも、この種の3音列が極めて多いことを言及しておきます。

 さて法則2とは、長2度間隔の3連続音列の旋律は、中間音に当たる re に第一核音としての機能が強い。と結論することができます。

 そして最後の法則3は、音列の上下音程を完全4度とする3音構成の旋律は、その最 高音か最低音に移行して終止する。しかもそのいづれの音も解決音のシラブルネームは laとなっている。と言うことです。これはまた慣例律的適性機能の性格を意味している ことでもあります。〔譜例(5、6)参照〕

[譜例・5]

 譜例の(5)も(6)も遍く知られている『わらべうた』の旋律ですが(5)の『てる てる坊主』は上行解決の曲調例です。

[譜例・6]

 そして(6)の譜例もまた有名な『大寒小寒』です。下行解決の典型的曲調でもあり ます。

 譜例(5)の4小節目は最下音に下降して一応中間終止し、6小節から7小節目に向 かって上行解決しています。これは上音解決と言う2音旋律に完全4度下の mi が付加されて成立した、2音旋律の進化的展開型である事がはっきりと窺うことができます。

 また譜例(6)では、これを全く逆にして前半2小節でひと先ず2音旋律の上行解決 を果たし、これが第一動機としての中間終止形と見ることが出来ます。そして後半は前 半の中間解決から完全4度下の la に向かって、3回の予動的揺動のあと下降して完全解決を果たしています。これもまた2音旋律型に1音を派生させ、下降的展開型ともみ ることが出来るものです。

 しかもこうした完全4度音域のエンゲメロディーは、中間の1音か2音かの違いはあ るとしても、古代ギリシャのテトラ・コルド(Tetra Cordo)と言う、楽理的単位とも共通しており、今日では世界各地の『わらべうた』に屡々見ることが出来る現象です。

 さてここで再び、中国古代に話を戻すことにします。まだ音律感が曖昧だった初期の 編鐘には、この慣例律が作調の目安とされて、その配列を増やしていったように窺えま す。

 洋楽のクロマチックにほぼ近い12律の音列型が作られ出したのは、前漢の武皇(BC .108)の頃以後のものと見られます。

 これから《楽書要録》則天武后の唐代(690〜)までの7世紀半の中国大陸は、これほ どまでに目まぐるしく激変した時代もなかったのです。またそれは幾多の王朝の興亡の 繰返しの時代でもあったわけです。

 その間に、かって土俗的色彩の強かった音楽文化はいつしか雅楽という王朝式楽まで 生んで、次第にその響態と楽式を荘厳と幽玄な方向へと昇華させていったのです。

 我が国の中世から戦国時代を経て近世に到るまでの間は、音楽文化が最も衰微した時 代と言う歴史的実態を識る筆者たちにとっては、中国の激動期はまさに想像の外にある ような不思議な現象としか言い様のない事柄でもあります。

 いづれにせよ文献による記録と言うものの、その陰の部分は文字文化を支配する王侯 や知識階層による、側面的視野によるものが中心でもあり、庶民的習俗文化の沿革と、そ の関係性は極めて希薄な傾向にあることは、世界史の上から見ても多かれ少なかれ避け ることの出来ないものです。従って慣例律のような自然音楽的問題を考察するに当たっ て、一般的に文化社会の価値観の影響をうけることの少ない各地の小数民族や『わらべ うた』のように、常にその時節の生活に対する基層文化は、その前時代の主流的文化を 伝承すると言う、周辺文化の特性をとうして往時の実態を窺うよりほかに、究明の糸口 はなかったわけです。