(10) 表情記号

 表情記号には二種類ある。
 一つは、legart,marcato,staccatoのように、演奏の仕方、音のあり方を形の上から表示するもの、もう一つは、dolce,amabile,espressivo のように、音の内面的な在り方を表示するものである。
 後者は、Allegro con brio,Allegretto gragioso というふうに速度記号と結びついて曲全体の在り方を表示する場合が多い。
 この場合、Allegro や Allegretto は、音楽の物理的側面を示し、(速度記号を物理的速度、生命的速度といっても、総体的には、所詮、速度という物理を表わすことに変わりはない)conbrioやgragiosoは、心情的な側面を表示している。そういう意味においては、先のlegartやmaracatoは、物理的に近い表情記号といえる。
 ところで、先人たちが、音楽をこうした二つの側面から捉えていたという事実は、非常に重要な点である。
 なぜなら、それは、音楽の本質的な在り方、考え方を示唆するものであるからである。
 少なくとも、こうした表示がなされた時代(それは西洋音楽の燗熟期である)において音楽は、音素材による遊戯や、音のデザインを目的とするものではなく、自己の心情や思想を伝達する手段として位置付けられていたことを示している。
 これは音楽によって、人間の内面的な伝達が可能であり、それが音楽の使命と考えられていたという証左でもある。
 しかも、西洋音楽の流れの絶頂を極めた時代に生まれたこの表示法の背景をなす考え方は、西洋音楽に、発生以来根ざしていた本質であり、西洋音楽の中に潜在的に求められてきた本質であると見ることができる。
 現代音楽が、主に、音の強弱と速度によって組み立てられているのは、従来、西洋音楽が持してきた本質、即ち、心情的な面を放棄して、音楽を無機的、即物的なものとして捉えようとする根本的な発想の転換である。
 そもそも、物理現象としての音響に、荘厳な音とか、情熱的な音というのは存在しない。だから、もし音楽が、純粋に物理現象としての音を伝達し、享受するといった、丁度、モールス信号のような性質のものであったとしたら、表情記号というのは何の意味も持たないし、不必要である。
 音楽が表情記号で表示されてきたということは、音楽によって伝えられる本質が、人間の表現意欲であり、生命の状態であることの証である。このことは、音楽の起源にさかのぼればさらに明確になる。
 音楽の基本をなすものは人声である。祈りや叫びから発達した音楽は、西洋音楽の場合においても長い間、声楽が主流であったことでも解かる。
 音楽を凝縮して、端的に人声と捉えれば、表情記号に表示される音楽の在り方は非常に明白である。
 日常、私たちが行う会話や歌など、声による表現、伝達は、意味のやり取りだけに終始しているのではない。むしろ、そこに込めた感情の享受である。
 声は生命の鏡であり、表現は生命活動の投影である。
 例えば、「こんにちは」というあいさつを交わしても、伝わってくるのは、相手の気持ちであって、意味が正確に伝達されたかどうかではない。相手が好意をもってあいさつを送ってくれたのか、内心は苦々しく思いながら、ただ、お義理であいさつしたのかは、たとえ後を向いていて目で確認できなかったとしても、相手の声を聞いただけで一目瞭然である。
 この声と生命との関係は、歌になっても変わるものではない。
 こう考えると、声楽における表情の要求は、いともたやすく、又、自然に表現できる。この原理を衍敷すれば、あいだに、楽器が介在しようとも全く同じであろう。ここに表情記号の原理があり、本質がある。
 これで、表情記号が、音楽の外面的な要素への要求ではなく、演奏者の内面的生命への要求であることが明らかになった。
 あとは、演奏家の生命の振幅、感度の問題である。同じ、表情記号をどのように深く読み取れるかは、演奏家自身の問題である。どれだけテクニックを持っていても、感度の低い生命、振幅の浅い感情から、深い表現は、決して生まれるものではない。